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『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの〔『栄花物語』「月の宴」の巻には、天平勝宝5年(572年)に孝謙天皇が橘諸兄ほかに命じて『万葉集』を撰ばせたとの記述があり、これに従えば勅撰和歌集の一番初めは『万葉集』ということになる。しかし現在では『万葉集』の成立は大伴家持が関わるところ大であるとされており、この『栄花物語』の記述はほとんど省みられていない。ゆえに勅撰和歌集の最初は『古今和歌集』であるとされている。〕。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。 == 成立 == 『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序〔「真名」とは漢字のことで、すなわち漢文で書かれた序文のこと。この真名序は『本朝文粋』にも収録されている。〕の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された〔この日付は仮名序にある日付で、真名序では延喜5年4月15日となっている。〕。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。 撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。 その成立過程については、以下のように仮名序・真名序の双方に記載されている。 延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らにおほせられて、万葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ(中略)すべて千歌、二十巻、名づけて古今和歌集といふ--仮名序 爰に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑等に詔して、各家集、并に古来の旧歌を献ぜしめ、続万葉集と曰ふ。是に於いて、重ねて詔有り、奉る所の歌を部類して、勒して二十巻となし、名づけて古今和歌集と曰ふ。(中略)時に延喜五年、歳は乙丑に次る四月十五日、臣貫之謹みて序す--真名序 これらをみると編集は古歌の収集と分類・部立の2段階で、延喜5年に奏覧(完成)としている。しかし上でも述べたように、『古今和歌集』には延喜5年以後に詠まれた歌が含まれているので、この「延喜五年四月」を奉勅の時期と考え、奏覧はもっと後だとする見方もある。ただし、序に奏覧の日が書かれず奉勅の日付のみを記すとは考えにくいことから、完成後増補改訂されたとするのが一般的である。なお、両序の日付が異なる理由は不明である。また真名序に出てくる『続万葉集』という書名は、仮名序を含め他書には見えない。 貫之の私家集である『貫之集』巻第十には、 :ことなつは いかがききけん ほととぎす こよひばかりは あらじとぞおもふ〔『群書類従』(第十四輯・和歌部 続群書類従完成会、1960年)所収の『紀貫之集』より。以下詞書も同じ。〕 という和歌があるが、その詞書には、 延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥(ほととぎす)のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る とあり、これが『古今和歌集』撰集のことであるとされる。その開始日は「四月の六日」とあるが、これが延喜5年のことだとすればわずか十日ほどで撰集が終わるとは考えられず、実際には一年または数年を要したとみられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古今和歌集」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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