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古川 勝(ふるかわ まさる、1936年1月6日 - 1993年11月21日)は、和歌山県橋本町(現・橋本市)出身の水泳選手。「人間ノーチラス」の異名をとった〔橋本市観光協会HOME > まちの紹介 > 古川勝(水泳選手) 〕。 == 人物 == ベルリンオリンピック優勝の前畑秀子とは同じ町内の出身。 幼い頃から紀ノ川で水に親しみ、和歌山県立橋本高等学校在学の頃から頭角を現す。前畑の薦めにより、平泳ぎに専念するようになった。ヘルシンキオリンピックには派遣されなかったが、同じ年に行われた全日本選手権で、ヘルシンキオリンピック第2位を上回る記録を出す。 その後、日本大学に進学し、水泳部に所属。同部OBだった葉室鐵夫(ベルリンオリンピック男子200m平泳ぎ金メダリスト)から、世界に勝つために潜水泳法を身につけるようアドバイスを受け、古川は潜水のトレーニングを重ねる。 肺活量が6000cc以上あった古川の潜水は実に45mにも及ぶものであった(他の選手は20m程度)。これにより古川は世界の第一人者となる。2年生の1955年には200mで世界記録を樹立した。 1956年に開催されたメルボルンオリンピックの200m平泳ぎに出場。得意の潜水の威力を発揮し、金メダルを獲得する。銀メダルの吉村昌弘との日本勢ワンツーフィニッシュを飾った。しかしこの直後、国際水泳連盟はルールを改正し、スタート直後とゴール前のひと掻きを除いて平泳ぎでの潜水を禁止したため、古川は潜水泳法で優勝した最後のスイマーになった。 大学卒業後は京都大丸に就職し、1984年時点では神戸大丸の外商企画課長を務めていたと当時の雑誌記事にある〔『Sports Graphic Number』No.103(1984年7月20日号)、文藝春秋、p20 - 21〕。 退職後、スイミングスクールの校長となり、1981年に国際水泳殿堂入りを果たした。 1993年に紫綬褒章を受章。同年11月21日に肺ガンのため57歳で死去した。死の直前まで携帯用酸素ボンベを手にプールサイドに立ち子供たちを指導した〔紀の国の先人たち > 古川勝 〕。 前畑秀子と共に橋本市名誉市民に選ばれており、毎年橋本市では「前畑秀子・古川勝記念水泳大会」が開催されている。 長男は関西学院大学総合政策学部教授の古川靖洋。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古川勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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