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古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - )は、プロ野球黎明期に活躍した元プロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)。 == 来歴・人物 == 鹿児島商業学校卒業後、八幡製鉄を経て、1941年に名古屋に入団。 1942年、5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つ。5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。7月18日の対阪急戦では、捕手として出場し、西沢道夫のノーヒットノーランに貢献している。 第二次世界大戦で軍隊に召集されるも戦争終了後に復員し、1945年11月23日、戦後初のプロ野球試合となった職業野球東西対抗戦(明治神宮野球場)に出場した。その後、中部日本に復帰するも、赤嶺昌志球団代表の解任を追って退団。1948年に阪急ブレーブスへ移籍し、1950年には56盗塁を記録。1953年8月30日の対南海ホークス戦で延長戦の参考記録ながらNPBタイ記録の1試合7安打を記録〔1949年に大下弘が9回までで記録。1試合7安打はこれまでに古川と大下の2例のみ〕〔週刊ベースボール2014年8月25日号97ページ〕。1959年に引退。 その後、妻(阪神大震災で死去)の父が伊藤勝吉調教師であった縁から、競馬評論家になり、サンケイスポーツにて予想コラムを書いていた。日本中央競馬会の「平成26年度顕彰馬記者投票名簿」に「会友」として名前が掲載されており、今なお投票権を有している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古川清蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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