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古市 胤仙(ふるいち いんせん、生年不詳 - 享徳2年6月24日(1453年8月8日))は、室町時代の武将。大和の国人で興福寺衆徒。古市胤憲の子。宣胤の兄。胤栄、澄胤の父。 同じ興福寺衆徒の筒井氏とは対立しており、嘉吉3年(1443年)の摂津河上五ヶ関務代官職を巡って大乗院門跡経覚と成身院光宣、筒井順永兄弟が対立した時、胤仙は経覚に与して光宣を破り、同年に管領畠山持国の指示で豊田頼英、小泉重弘らと共に大和の支配を任された。文安元年(1444年)2月には3名が経覚から改めて3名に官符衆徒棟梁・奈良中雑務検断職に任ぜられている(『経覚私要鈔』文安元年2月27日条)。 しかし、その後光宣が勢いを盛り返し、経覚派を打ち破った。胤仙も光宣の弟の筒井実憲を討ち取ったが、文安2年(1445年)に光宣に敗北、経覚派の拠点・鬼薗山城を奪われた。以降、胤仙は居城の古市城に拠って光宣との戦いを続け、文安4年(1447年)には経覚を強引に古市に迎え入れ、その権威を利用して筒井氏や一族内の反対派を抑え込もうとした。享徳2年(1453年)3月には光宣の弟・筒井尊覚(実憲の兄)を討ち取ったが、5月には自身も熱病に倒れて6月に死去。これをきっかけに筒井氏と経覚派は歩み寄り、翌享徳3年(1454年)に和睦した。 文化人でもあり、文安4年(1447年)には経覚を招待して連歌会を催した。この気質は2人の息子にも受け継がれていく。 == 参考文献 == *田中慶治「中世後期畿内国人層の動向と家臣団編成 -大和国古市氏を中心に-」(初出:『日本史研究』406号(1996年)/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古市胤仙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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