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古市 胤栄(ふるいち いんえい、永享11年(1439年) - 永正2年11月13日(1505年12月18日))は、室町時代から戦国時代の僧・武将。大和興福寺の衆徒。父は古市胤仙。澄胤の兄。幼名は春童丸、通称は丹後公、諱は藤勝。 == 生涯 == 享徳2年(1453年)に父が没したため、後を継いだ。寛正6年(1465年)8月に出家して胤栄と改名、翌文正元年(1466年)5月に斯波義廉と主従関係を結んだ。大和は畠山氏のお家騒動で2分され、国人は畠山義就と畠山政長それぞれを支持して争っており、胤栄は越智家栄と共に義就を支持して応仁の乱が起こった応仁元年(1467年)6月に上洛、政長派の筒井順永・箸尾為国・十市遠清らと戦った。また、一族・家臣に対する統制を強化して、文正元年(1466年)には反抗する一族の山村氏を追放し、文明2年(1470年)には騒乱を起こした被官2名を処刑、一族を含めた30名を追放した。処分された者の中には山村氏のように古市氏と同じ興福寺の衆徒も含まれていたが、主君である興福寺が異議を挟むこともできなかった。文明7年(1475年)5月の春日社頭の戦いで敗れて負傷したため、同年に澄胤に家督を譲った。これは、胤栄の強引な家中統制に対する批判を避ける意味もあったとされる。隠居後、胤栄は宗家を継いだ澄胤に遠慮して「古市西」を号したものの、実際には家中に大きな影響力を有していた。永正2年(1505年)に67歳で死去。 風流人であり、淋汗茶湯と呼ばれる風呂と茶を愉しむ寄り合いを行ったことで知られ、澄胤と共に茶の湯の祖村田珠光の弟子になっている。古市氏の後裔が江戸時代、小笠原総領家(小倉藩主)の茶道頭をつとめたため、小笠原家茶道古流の祖として名があげられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古市胤栄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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