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明誉 古礀(めいよ こかん、承応2年(1653年) - 享保2年5月23日(1717年7月1日))は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活動した浄土宗の僧侶、画僧。京都の報恩寺第15代住職。号は虚舟、澄蓮社。 == 略伝 == 出生地や家系、世俗名などの出自は不明だが、大和郡山出身とする説があり、増上寺で修行したとも言われる。貞享元年(1684年)32歳の時、敬神の証として自ら大黒天を1000体描くことにした、というのが初めてわかる事績である。1680年代後半から20年ほど、京都で画僧として活動していたようだ。年次が確実な最も早い作品は、貞享5年(1688年)刊行の『當麻曼荼羅白記撮要』(当麻曼荼羅についての必修概要)と『浄土十六祖伝』の木版挿絵で、以後もしばしば浄土宗関係の版本の挿絵を手掛けている。元禄10年(1697年)知恩院で浄土宗祖法然が東山天皇から「円光大師」を追贈されたことを祝した記念式典が行われた際、古礀はこれを記録する「円光大師贈号絵詞伝」制作を任されており、既に画僧として名声を得ていたことを物語っている。1700年代前半には大和郡山の西岸寺に移り、正徳4年(1714年)から同6年(1716年)まで薬師寺地蔵院に住した。晩年は西岩倉に隠棲したという。享保2年(1717年)示寂、65才。墓所は報恩寺。絵の弟子に高田敬輔がいる。 狩野永納に画を学んだとされ、海北友雪と似た画風の作品もある。のち雪舟の画風を慕ったといわれ、号の「虚舟」の「舟」は、雪舟から取ったとも考えられる。代表作には画僧らしく涅槃図や縁起絵巻が挙げられるが、遺作全体を眺めると簡略な水墨画での山水画や人物画が多く、特に軽妙な筆致の大黒天図が目立つ。書も堪能で、忍界と月僊と共に「江戸時代浄土宗の三筆」とも評される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明誉古礀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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