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古田徳昌 : ミニ英和和英辞書
古田徳昌[ふるた のりまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

古田徳昌 : ウィキペディア日本語版
古田徳昌[ふるた のりまさ]

古田 徳昌(ふるた のりまさ、1928年3月27日 - )は、日本の実業家大分県出身。自動車メーカーマツダ第7代社長。元通商産業省貿易局長〔。
==来歴・人物==
大分経済専門学校(現大分大学経済学部)、東京大学経済学部卒業〔。
1952年(昭和27年)、通商産業省入省。同期には杉山和男(通産省事務次官)、並木信義(名古屋市大教授)、小松国男(通産審議官)、小島英敏(経企次官)、谷村昭一(経企次官、日商専務理事)、服部典徳(工業技術院総務部長)、倉部行雄(防衛庁装備局長)、平林勉(官房審議官)などがいる。
椎名悦三郎通産大臣の秘書官として仕え、同大臣の薫陶を受ける。座右の銘の「省事」は、椎名氏の座右の銘から得ている。
1969年より1973年まで、在フランス日本大使館(パリ)参事官として赴任。帰国後、航空機課長、自動車部長、資源エネルギー庁石油部長などを歴任。1981年通商産業省退官後、電源開発株式会社理事に就任。
1985年(昭和60年)マツダ入社〔。同社専務を経て、1987年(昭和62年)12月、マツダ社長に就任。初の会社外部出身の社長となる。これは前社長山本健一が体調不良に加えプラザ合意以降の円高不況で経営悪化したため退任することになったためであり、当初山本は副社長でメインバンクである住友銀行出身であった和田淑弘を社長に推薦したが巽外夫住友銀行頭取が拒否したため、2番目の候補として専務の古田を推薦したことによるものだった〔。
当時、貿易自由化が進み通産省でも国内メーカー再編が検討されていたため、生き残りをかけて上位3社を目指し、販売5チャンネル化を推進した〔日本人社長就任 マツダトップ交代 (中国新聞)〕。その他に往年の軽自動車・キャロルオートザムブランドで発売、高級セダン・センティアカペラセダンの後継車・クロノスロードスター発売などを行った。
任期中に、マツダによるルマン24時間レースでの優勝を経験した。これはロータリーエンジンによる参加が認められた最後の年での初優勝であった。
マツダ就任の際には、役所との関係が強くない民間企業をとの希望で、住友銀行からの紹介で就任したとの経緯もある。
また任期中、日本のサッカーリーグのプロ化が計画されており、マツダサッカークラブもプロリーグ参加を打診されていた。当初、プロ化移行費用へ試算が出来ないなど経営的な問題から、参加に消極的であった。これに対し、野村尊敬広島県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民が嘆願に訪れ、1991年1月22日夕刻には竹下虎之助広島県知事との会談が設けられた。県からの援助の約束を取りつけ、メインバンクの住友銀行からの後押しもあり〔広島サッカー向上委員会・今西和男インタビュー および「Jリーグ開幕15周年記念 サンフレッチェ広島 レジェンド・オブ・スターズ」(Data Stadium)川淵三郎インタビューより〕、翌23日リーグ加入の方向を正式表明した〔田辺一蹴責任編集コラム 〕。その後マツダサッカークラブを母体とするサンフレッチェ広島が誕生した。
社長退任後の1992年4月、Jリーグ・サンフレッチェ広島初代球団社長に就任。任期中、Jリーグステージ優勝も経験した。
その後は日本サイクリング協会会長などを歴任している。
実兄は、日本画家であり、関西圏を中心に全国に展開をしている餃子チェーンの珉珉の創業者の古田安夫(雅号 古田 安=ふるたあん)(故人)である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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