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古田 昌幸(ふるた まさゆき、1933年9月30日 - 1999年7月30日)は、熊本県熊本市出身の野球選手(内野手)・監督。 社会人野球の熊谷組で選手、のちには選手兼任監督として活躍し「ミスター都市対抗」と呼ばれた〔『毎日新聞』2010年1月13日付朝刊 (14版、16面)〕。 == 経歴・人物 == 九州学院高校から立教大学に進学。野球部では大沢昌芳(後に大沢啓二)と同級生で、長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾らの二学年先輩であった。東京六大学リーグ通算89試合に出場し、320打数70安打、打率.219、0本塁打、26打点。 大学卒業後は熊谷組に入社し、二塁手として活躍。から13年連続で都市対抗野球大会に出場し、3度の優勝に貢献。にアメリカで開催された第3回世界野球大会に日本代表で出場し、決勝のカナダ戦で同点の延長13回表に決勝点となる適時打を打ち日本の初優勝に貢献した〔『朝日新聞』1957年9月19日付夕刊 (3版、3面)〕。 の第37回都市対抗野球大会ではプレイングマネージャーとして熊谷組の優勝に貢献。古田自身がサヨナラ3ラン本塁打を放った準々決勝〔『朝日新聞』1966年7月31日付朝刊 (12版、13面)〕 からの3試合はすべてサヨナラ勝ちという劇的な優勝で、古田は橋戸賞を受賞した〔『朝日新聞』1966年8月2日付朝刊 (12版、13面)〕。都市対抗野球大会の出場は通算16回で、うち10回は監督兼任であった。 晩年は日本野球連盟理事等を歴任した。1999年7月30日に心不全で死去〔『朝日新聞』1999年7月31日付夕刊 (4版、15面)〕。 に特別表彰で野球殿堂入りを果たした〔。同年8月27日の第81回都市対抗野球大会開会式(東京ドーム)で立教大学の同級生であった大沢啓二立ち会いの下、古田の殿堂表彰式が執り行われた〔『毎日新聞』2010年8月28日付朝刊 (14版、23面)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古田昌幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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