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古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。第28代連合艦隊司令長官。太平洋戦争中の海軍乙事件にて殉職した。最終階級は元帥海軍大将(殉職後、特旨による授与)。 == 人物・来歴 == 佐賀県西松浦郡出身。佐賀中学校出身。在校中に誠友団と名づけた交友団体に属す。会員には吉田善吾や下村湖人がおり、『次郎物語』に登場する新賀峯雄は古賀である〔『最後の砦 提督吉田善吾の生涯』pp.124-126〕。海軍兵学校(34期)に進み、席次は入校時195名中29番、卒業時175名中14番。同期生に佐藤三郎、和田秀穂、住山徳太郎などがいる。古賀はフランス駐在が長く、国際経験が深かった。 当時の日本海軍の大勢を占めていた大艦巨砲主義論者ではあったものの、対英米条約協調派の1人であり、ロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省首席副官を務め、山梨勝之進、堀悌吉、下村正助などと協同して暗殺される覚悟で条約締結に尽力。米内光政・山本五十六・井上成美などとも親しく、井上は古賀の事を『非常にものの判断の正しい人』と高く評価していた。また、山本や堀とは個人的にも親しかった。 」 支那方面艦隊司令長官として太平洋戦争開戦を迎え、山本の戦死後に横須賀鎮守府司令長官から連合艦隊司令長官に親補された。しかしすでに制空権、制海権は連合国側が主導権を掌握しつつあり具体的作戦を講じる事も困難な状況になりつつあった。古賀自身も連合艦隊司令長官としてトラック泊地の旗艦武蔵に着任した際、連合艦隊司令部で開催した就任後初めての首脳部会議で「すでに3分の勝ち目もない」と戦況の見通しを語っている。古賀長官は攻めの山本長官の姿勢から守りの姿勢に転換し、艦隊決戦を行うならば離島守備隊も捨石にするという玉砕をかけての千早城戦法を採用し、洋上戦ではバルチック艦隊邀撃戦法によって敵の主力艦隊と艦隊決戦を行おうとする戦法を採用して、新Z号作戦を策定した。 パラオ大空襲に際し、パラオからダバオへ飛行艇で移動中に行方不明となり殉職した(海軍乙事件)。山本に続き古賀までも失うことになり、日本海軍にとって大きな打撃となった。殉職後、ナチス・ドイツ政府より柏葉騎士十字章が贈られた。 墓所は多磨霊園の名誉霊域で、ここには古賀と並んで東郷平八郎、山本五十六が葬られている。古賀の墓は他の二人と比べて質素で目立たないが、これについて古賀の妻は「古賀はお手柄を立てた訳でもないので、これで結構でございます」と語ったという。また、古賀は戦死ではなく殉職とされた事が原因で靖国神社には合祀されていない。 連合艦隊司令長官在任時はほとんど笑顔を見せることはなかったが、キスカ島撤退作戦の成功などを心から喜んだといわれている。 死後、元帥海軍大将に任ぜられたが、その時下賜された元帥刀と元帥正刀帯は、横須賀市田浦の海上自衛隊第2術科学校資料室に展示されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古賀峯一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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