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古麓城(ふるふもとじょう)は、熊本県八代市古麓町(旧 肥後国八代郡)にあった諸城の総称、近世に名付けられた城塞群である。古麓町の東側の山中に7城(曲輪)が存在したと一般に言われている。 平成26年(2014年)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」の名称で、八代城、麦島城とともに国の史跡に指定された〔平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。〕。 ==概要== 南北朝時代において九州の南朝勢力の中心であった肥後でも、特に菊池城(菊池氏)、古麓城(名和氏)、鍋城(多良木氏/上相良氏)の三つは、斜陽の南朝勢力の拠り所となった重要な城塞であった。隈府が有名であるが、八代に征西府や御所が少なくとも数十年間にわたって置かれていたことは、地元でも余り知られていない。古麓の北東には良成親王が菊池武朝に築かせた中宮山悟真寺と懐良親王御陵があり、対岸の豊原上町には高田御所があったが、現在は石碑が残るのみである。 古麓は球磨川北側の河口近くに開けた町で、町の西縁と球磨川とには11-15メートルほど段差があり、川の流れも大きくカーブしている。町の北縁には春光川が東西方向に流れており、俯瞰すると背後の山と併せて三角形状の独立区画を成していることが分かり、自然地形の上から城を築くにふさわしい地形であったと言える〔。さらに名和氏の時代の主城という飯盛城については、北に「にべ谷」〔名和顕忠によって、寛正6年(1465)に建立された名和氏の氏神を祀る「にべ神社」がある。〕があるのでこの三角形状は二重となり、自然地形が外郭をなしていることが分かる。 古麓城は、名和氏と相良氏によって、古麓の東側の山岳地帯、主に尾根沿いの山城として築かれた。七つの城塞は、名和氏時代の五つと、相良時代の二つに色分けできる。また中世期の名和氏の居館は御所のそばにあって麓の対岸であったが、戦国期の相良氏は麓に家臣団の屋敷や城下町を構えたので、城下町も発展していた。現在八代市の中心は江戸時代以後に干拓で広がった平野部に移っており、道路の拡張によってその面影はほとんど残っていないが、当時の古麓は、城下町の麓集落、妙見宮の門前町、大内氏の許可で日明貿易が行われていた国際貿易港徳淵津(とくぶちのつ、徳渕津)の港町を合わせ、人口5万人規模〔の南九州最大の都市として繁栄していた。古麓城はその交通の要衝を見下ろす位置にあり、八代荘を守る上で最も重要な要害であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古麓城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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