|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 只 : [ただ] 1. (adj-pn,adv,conj) free of charge 2. mere 3. sole 4. only 5. usual 6. common ・ 野 : [の] 【名詞】 1. field ・ 真 : [まこと, しん, ま] 1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness ・ 葛 : [くず] 【名詞】 1. (Japanese) arrowroot
只野 真葛(ただの まくず、宝暦13年(1763年) - 文政8年6月26日(1825年8月10日))は、江戸時代中期・後期の女流文学者で国学者。父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明批評家〔杉本(1977)p.32-40〕や女性思想家〔関(2008)p.199-237ほか〕と評されることもある。『赤蝦夷風説考』の筆者工藤平助の娘で、別号は綾女。本名は工藤あや子(綾子)、または単にあや(綾)。「工藤真葛」、「真葛子」、「真葛の媼(おうな)」とも称される。只野は婚家の姓。読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評をたのんだ経世論「独考(ひとりかんがへ)」、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。 == 生涯 == === 出生と系譜・家族 === 只野真葛こと工藤あや子は、宝暦13年(1763年)、仙台藩江戸上屋敷に近い江戸築地で生まれた〔日本橋数寄屋町で生まれたという説もある。只野真葛小伝(門玲子) など。しかし、関民子は、それは大槻玄沢の孫大槻如電の書き記した「江戸日本橋南数寄屋街に常住」の記録に依拠しており、あや子の生家は築地にあったろうと推測している。関(2008)p.91-92〕。父は仙台藩江戸詰の医師であった工藤周庵(平助。1734年-1801年)、母は同じく仙台藩医の桑原隆朝の長女遊(ゆう。1741年?-1792年)〔門玲子は母の名を遊(ゆう)とするが、関民子は名がわかっていないとしている。門(2006)p.20、関(2008)p.18。〕。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には7人きょうだいの長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子どもたちを秋の七草の名にちなんで呼称していたことに由来し〔永井(2005)p.247-267〕、40歳ころからみずから用いるようになったものである〔関(2008)p.3-4〕。 祖父工藤丈庵(名は安世、父平助の養父。1695年-1755年)は、仙台藩第5代藩主伊達吉村が寛保3年(1743年)に江戸品川袖ヶ先に隠居するにあたり、その侍医として300石で召し抱えられた。父平助は、紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であったが延享3年(1746年)頃丈庵の養子となった。祖父丈庵は、名医として知られていたばかりでなく、学問、歌道、書道および武芸百般に通じ〔真葛は、『むかしばなし』のなかで、祖父丈庵について「工藤丈庵と申ぢゞ様は、誠に諸芸に達せられし人なりし。いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり」と記している。〕、蝦夷開拓論者の並河天民から情報を得ており、また、蓄財も巧みであったといわれる〔『むかしばなし』には、「ぢゞ様はそうぞくむき巧者にてありし」の記述がある。〕。丈庵は、あや子が生まれる8年前に没している。 母方の祖父は、仙台藩医桑原隆朝如璋(1700年ころ-1775年)で、元文5年(1740年)に200石で仙台藩に召し抱えられ、第6代藩主伊達宗村(吉村四男)のとき、400石に加増された。如璋の妻桑原やよ子(生没年不詳)は『うつほ物語』の紀年(年立)を考察し、安永年間(1772年-1780年)に研究書『宇津保物語考』を著すほどの高い教養の持ち主であり、両親に厳しい家庭教育を施されたあや子の母〔関(2008)p.18-19〕もまた『古今和歌集』『新古今和歌集』『伊勢物語』などを暗唱し、『大和物語』も繰り返し読むなど古典文学に造詣の深い女性であった〔。なお、母の弟桑原隆朝純の娘で、あや子からは従妹にあたる桑原信(のぶ)は伊能忠敬の後妻となっている。 あや子には、弟2人と妹4人がいた。きょうだいは七草の以下の草花にたとえられた。 *長女/あや子…葛 *長男/長庵元保(幼名安太郎)…藤袴。あや子の2歳下 *次女/しず子…朝顔。雨森家に嫁す *三女/つね子…女郎花。加瀬家に嫁す *次男/源四郎鞏卿(幼名四郎、元輔)…尾花。あや子の11歳下 *四女/拷子(たえこ、瑞照院)…萩。婚せず。文化9年(1812年)に剃髪。萩尼と号す *五女/照子…撫子。中目家に嫁す。あや子の23歳下 しず子、つね子、拷子の年齢は不詳ながら、長庵としず子、しず子とつね子、拷子と照子は年齢が近かったと推定される〔関(2008)p.40-41〕。あや子はきょうだいのなかでもっとも身体がじょうぶであり、また、祖母にあたる平助の養母ゑん(旧姓上津浦、1718年-1787年)は、夫丈庵より23歳も若く〔丈庵が仙台藩医として取り立てられるにあたって妻帯が義務づけられていたため、平助の養子縁組とほぼ同時に丈庵と婚儀を結んだ。関(2008)p.4-5〕、当世風の陽気な人柄で、あや子を秘蔵っ子としてかわいがったという〔関(2008)p.7-9,p.41-42〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「只野真葛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|