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台湾からの引き揚げ(たいわんからのひきあげ)では、1946年(昭和21年)2月21日から開始された台湾在留日本人の引き揚げについて解説する。 == 概要 == 1945年ポツダム宣言受諾による、日本の敗戦に伴い、外地に在留していた日本人の引き揚げ事業が始まった〔河原(2011年)〕。その開始当初の予定では、台湾以外の他の地区からの帰還を優先させ、台湾からの帰還は最終段階で予定されていた〔。台湾の治安をはじめとする状況が、他の地域(例えば旧「満州」地区)に比べてはるかに良かったからである〔。また、敗戦を迎えても在台日本人のなかで本国へ引き揚げを希望する者はわずかしかいなかった〔加藤(2009年)114ページ〕。朝鮮や満州と比較して、在台日本人の敗戦認識には特異なものが見られる〔。彼ら日本人のほとんどが、台湾人によって危害を加えられたり、不安にかられたことがなかったことによる〔。多くが都市生活者である彼らは、すでに生活用品の切り売りなどでタケノコ生活に陥っていながらも、住居を追い出されることもなく、敗戦前と同じように市内も自由に歩き回ることができた〔。また戦前からの紙幣であった台湾銀行券が敗戦後も主軸通貨として流通していた。朝鮮各地で在朝日本人が日本人世話会を結成していたのと違い、在台日本人は自らを守るための組織をつくろうとしなかったが、これには敗戦前と変わらず台湾総督府が機能していたことが大きな要因であった〔。しかし、台湾統治の中核は、陳儀率いる行政長官公署による大陸系中国人に握られ、台湾人の政治参加が限定されていることへの不満、大陸から持ち込まれたインフレーション、大陸系中国人と台湾人との言語や習慣の違いに起因する些細な軋轢の積み重なりなどにより、政府に対する不信感・反感は日増しに高まり、やがてその不満は、日本人に対しても向けられるようになった〔加藤(2009年)126ページ〕。これまで安閑と過ごしてきた在台日本人のなかでも、接収に伴う失業者の増大や物価の高騰、反日的言動の増加によって、日本への引き揚げを希望する者がだんだんと増加してきた〔。1945年10月になり、台湾の接収が現実化するにつき、台湾総督府の権威も低下してきた。また敗戦時に30万を数えていた第10方面軍が、敗戦後に現地招集者や台湾人の招集解除により17万人程度に減ったとはいえ、なお駐留を続けていた〔。連合国にとっても現地に日本軍が残留していることは、治安維持の観点でも好ましくないので、日本で不足している輸送用船舶を提供してでも、出来るだけ早く本国に帰還させようと考え始めた〔。そこで最初に軍人軍属を優先的に復員させ、その後1946年2月21日から民間人の帰還を開始した〔。この2月21日以降の帰還事業は、第一次帰還から第三次帰還を中心に数次に分けられる〔。この台湾からの引き揚げ事業で帰還した日本人は、最終的に、軍人軍属15万7,388人、民間人32万2,156人、合計47万9,544人である〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「台湾からの引き揚げ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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