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史 惟亮(し いりょう、スー・ウェイリャン、1925年〔1926年とする資料もある。脚注にある国立伝統芸術センター (:zh:國立傳統藝術中心) のページの記述などを参照。〕9月3日 - 1976年2月14日)は、中華民国/台湾の作曲家、民族音楽学者。 == 生涯 == 遼寧省営口市〔当時の営口県、現在の大石橋市とする資料もある。脚注にある国立清華大学図書館のページの記述などを参照。〕に生まれた。抗日戦争(日中戦争)の時期には、中国国民党の東北党務委員となり、「石立」ないし「作基」〔という偽名を使って抗日の地下活動に従事した。第二次世界大戦後、歴史学を専攻しようと東北大学に入学したが、19歳のときに北平国立芸術専科学校へ転学して、音楽を学び始めた。音楽界においては、遅いスタートであった〔。しかし、学業は長く続けられなかった。国共内戦が勃発し、「流亡学生」の身分となった史は、1949年に台湾省立師範学院(国立台湾師範大学の前身)の音楽科へ移り、引き続き学ぶことになった。 その後、史は国立台湾師範大学附属高級中学の音楽教師となった。1955年、留学試験に合格し、資金の工面をした上で〔、1958年にスペインに渡り、マドリード音楽院に学ぶが、程なくしてオーストリアのウィーン音楽院へ転じた〔。6年の欧州留学中、学費を稼ぐために鉱山や工場で働きながら学び続け、その苦行僧のような姿勢から、友人たちに「現代の玄奘」と評されたという〔。 1965年に台湾に戻ってからは、国立台湾芸術専科学校(国立台湾芸術大学の前身)や国立台湾師範大学、文化学院(中国文化大学の前身)などで教鞭を執り〔、中国青年音楽図書館の建設を支援したほか、台湾における民謡の収集に取り組み、中國民族音樂研究中心を設立して、許常恵 (許常惠) らとともに民謡収集の現地調査を進めた〔。1968年には、西ドイツのボン大学の招きに応じ、同大学における「中国音楽センター」の設置に協力した〔。また、1973年から1974年には台湾省立交響楽団(後の国立台湾交響楽団)の第4代団長を務めるなど、各種音楽団体の役職を歴任した〔。 史は、嚴謹な生活を送り、酒も煙草もたしなまなかった〔。しかし、1976年に台北市において〔、肺癌のために50歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「史惟亮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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