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右京少進 : ミニ英和和英辞書
右京少進[うきょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みぎ]
 【名詞】 1. (1) right hand side 2. (2) above 3. afore-mentioned 4. foregoing 5. forgoing 
: [みやこ, きょう, けい]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis

右京少進 ( リダイレクト:京職 ) : ウィキペディア日本語版
京職[きょうしき]
京職(きょうしき)とは、日本律令制において(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ〔万葉集 16・3859〕。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称〔旺文社 古語辞典 第3版 「きゃうしき」「きょうしょく」「みさとづかさ」より〕。
== 職掌 ==
京職は京域に関わる行政司法警察を統括した制度。日本書紀に初めて見える。京職は地方における国司に相当する職掌〔職員令をみると、国司の職掌のうち、寺社・駅伝・勧農・烽候などは京職は行わず(地理的に不要もしくは他の中央官司が行う)、市廛(市場とそこにある店舗)・度量衡・道橋の修理清掃などは京職独特の職務である(市川、2009年、P15-21)。〕を扱っているが、古代国家における京は国家を運営するために建設された人工的な都市空間としての性格を有しており、その京を運営・維持するための独自の職掌を有していた京職は国家にとっては欠くことが出来ない中央官司とされ、国司とはその性格を大きく異にしていた。これは、国司が外官(地方官)であるのに対し、京職は京官(中央官)扱いであることからも分かる〔市川、2009年、P14-27〕。また、京職と国司では同じ職掌でも、内容が大きく異なる事例もある。代表的な例として戸籍に関する業務が挙げられる。考課令には国司・郡司の評価対象として戸口増益(人口増加)があり、隠首括出された浮浪逃亡を貫付(本貫として戸籍に登録)した成果も含まれていた。だが、京戸の貫付(京貫)は勅によって実施され、国司の職掌であった浮浪・逃亡・死亡による除帳(戸籍などから除く)の権限も京戸に関しては政府が行い、京職が行うことはなかった。もっとも、同族による申請を除けば、除帳はほとんど実施されず、更に度重なる遷都に同行せずに旧都に留まる民もいたために戸籍と実態の乖離が大きくなった。そのため、貞観18年(876年)〔『類聚三代格』巻17所収・貞観18年6月3日付太政官符〕になって京職に除帳の権限を認めることになった〔市川、2009年、P128-140・166-179・189-192〕。
京職は日本独自の制度である。日本の律令のモデルとなった唐の制度と比較すると、唐の長安の場合、関内道(後京畿道)-雍州(後京兆府)の下に万年県(西側)・長安県(東側)が設置され、他の地域と同様のという地方制度の下に置かれていた(なお、わずかながら、万年県・長安県ともに長安城外の一部近郊農村も管轄としている)。更に城内では、都市内においては坊と里が別々に設定されて、坊正(日本の坊令に相当)と里正(日本の里長に相当)がそれぞれ設置されて、前者は警察的業務、後者は徴税的業務を担当していた。更に長安の市場および行(商人組合)・邸店は経済官庁である太府寺の管轄下にあったが、日本の京の市場は規模が小さく、かつ行や邸店も存在しなかったとされており、市を管轄する市司は京職の被官とされていた〔市川、2009年、P216-264〕。
左右二職ありそれぞれ左京・右京を統治する。被官に市司(いちのつかさ)があり、それぞれ左京職が東市司を、右京職が西市司をそれぞれ管轄し市場に関する事務を取り扱った。唐名を「京兆(けいちょう)」という。
行政事務を補佐するために各条ごとに坊令、各坊ごとに坊長(町長)が置かれ、末端まで統治した。坊令・坊長はそれぞれ郡司里長に相当するが、京には郡司級の在地の有力豪族が存在しなかったことから、坊令には坊内に居住する京戸でかつ八位・初位の位階を有した者から選ばれていた。坊長には坊内に居住する白丁から選ばれた。坊長は坊内の京戸の戸籍を管理するとともに、租税の徴収、雑徭・兵士の徴発、犯罪発生時の官司への追放と犯人の追捕、坊内の治安維持、坊内で発生した奴婢・家地の売買・裁判における証明・調査など、坊内における徴税的・警察的な業務を行っていた〔市川、2009年、P82-98〕。坊令は令制では定員12人であるが、遷都ともに変化した。
ところが、平安京に遷都して以後、従来は京外に別に拠点を有していた貴族層の京への定着が進むとともに、坊令の命令に従わない貴族およびその従者が増加して問題化していった。その一方で、坊令そのものも京職の官人としての要素が強くなり、坊との関わりが希薄になった。このため、貞観4年(862年)に左京大夫紀今守の提言によって坊令に代わる地域の責任者として保長を設置し、貴族や官人をこれに任じることとなった〔『日本三代実録』貞観4年3月15日条〕。平安時代中期(10世紀中期)になると、保長の制度も機能しなくなり、地域社会に台頭した有力者を保刀禰に任ずることでかつての坊令・保長が担ってきた役割を果たさせようとした。だが、次第に治安権限を検非違使に奪われていくことになる。だが、その他の行政面では依然として京職は一定の役割を果たしており、14世紀頃までその活動がみられる〔市川、2009年、P103-113・269-278〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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