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司馬 昭(しば しょう)は、三国時代の魏の武将・政治家。晋の武帝司馬炎の父。晋代に太祖の廟号と文帝の諡号を追贈された。 == 生涯 == 司馬懿の次男として生まれる。母は張春華。景初2年(238年)に新城郷侯に封じられる。 正始5年(244年)、曹爽による蜀漢攻撃(興勢の役)に従軍。戦果は挙がらず、撤退を進言した。 正始10年(249年)に父の司馬懿、兄の司馬師とともにクーデター(高平陵の変)を起こし、政敵の曹爽一派を失脚させた。当初はこの計画を知らず、その前夜に初めて兄から伝えられたという。曹爽らは間もなく一族皆殺しの刑に処された。 正元2年(255年)、寿春で毌丘倹と文欽の反乱が起こる。司馬師が10万の軍勢を率いて討伐する間、中領軍の官職を兼ねて都洛陽を守った。乱の鎮圧後、兄が男子を儲けないまま亡くなったため、家督を継承した。大将軍・録尚書事になり、翌正元3年(256年)には高都公、大都督になる。 甘露2年(257年)、寿春で諸葛誕の反乱が起こった。皇帝曹髦と皇太后を奉じて東征し、26万の大軍を指揮した。翌甘露3年(258年)、寿春は陥落し反乱を鎮圧した。同年に相国・晋公・九錫を下賜するという詔を受けるが、辞退した。 甘露5年(260年)、皇帝曹髦が司馬氏打倒のために挙兵した。曹髦がわずかな手勢を率いて宮中を出たことを知ると、護軍の賈充に進軍を阻止するよう命じた。宮殿の南門付近で戦いが起こり、曹髦は賈充配下の成済に刺殺された。この事件の後、挙兵を予め知りながら注進しなかった尚書の王経を処刑し、また、皇帝を弑逆した成済は一族皆殺しに処したが、成済に指示を与えた賈充は腹心であったために罰しなかった。新たな皇帝には曹奐(元帝)が即位した。 景元4年(263年)、蜀漢討伐の軍を興す。鄧艾・鍾会・諸葛緒に三方面から蜀を攻めさせ、間もなく滅ぼした(蜀漢の滅亡)。その間に再び相国・晋公・九錫を下賜する詔を受け、また丁重に辞退したが、朝廷内の強い要請もあり、六度目にしてようやく勅命に従った。この時、司空の鄭沖(ていちゅう)らが封爵を勧める勧進文を提出したが、草稿は阮籍によるものであった。翌景元5年(264年)に晋王の爵位を授かる。 咸熙2年(265年)、中風のために54歳で逝去。文王と諡された。兄司馬師の養子になっていた三男の司馬攸に晋王を譲ろうとしたが、周囲の反対もあり、長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。 墓所である崇陽陵の場所は史書に記載がなく長年不明であったが、近年河南省偃師市の沈頭山南麓に陵墓が発見された(『中国文物地図集河南分冊』に記載あり)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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