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司馬 模(しば も、? - 311年)は、中国西晋の皇族。字は元表、または元素。南陽王。司馬懿の四弟である司馬馗(季達)の孫で高密王司馬泰(子舒)の第四子。兄弟に東海王司馬越、新蔡王司馬騰、高密王司馬略ら。子に南陽王司馬保、范陽王司馬黎ら。 == 生涯 == 若い時には文才を評価され、琅琊王司馬睿および范陽王司馬虓とともに宗室内で賢名で知られた。はじめ平昌公に封じられ、恵帝の末年に冗徒僕射を拝して、さらに太子庶子に累進し、員外の散騎常侍に任じられた。成都王司馬穎が長安に奔ったとき、兄の東海王の司馬越は、弟の司馬模を北中郎将に任じ、鄴城に鎮守させた。永興初年(304年)、成都王の司馬穎のもとの部下の公師藩、楼権、郝昌らは鄴城を攻めたが、広平太守丁邵は軍を率いて救援に来た。また范陽王の司馬虓も兗州刺史の苟晞を救援に遣わし、公師藩らは逃げ散った。その後、鎮東大将軍に昇進し、許昌に鎮守して南陽王の爵位を得た。永嘉初年(307年)、司馬模は征西大将軍になり、都督秦雍梁益諸軍事に任じられ、幕府を開き、河間王司馬顒の代わりに関中を鎮守した。 東海王の司馬越は司馬模を司空に任じる為、中書監の傅祗を遣わし、関中の鎮守を交替させた。司馬模の謀臣の淳于定は司馬模に長安の留守をするよう建議し、兄司馬越と一人は在内に、一人は在外に鎮守するよう図り、子の司馬保を西中郎将、東羌校尉に任じて上邽(甘粛省天水市)を鎮守させた。司馬越は司馬模を太尉、大都督に位を進めた。 永嘉5年(311年)、永嘉の乱が発生して、蒲坂に鎮守していた牙門将の趙染は、馮翊太守を求めたが得られず、軍を率いて劉聰に投降した。劉聰は嗣子の劉粲そして趙染を派遣して長安を攻め、司馬模は淳于定を派遣して防ぎ止めたが、趙染に撃破され敗れた。司馬模は趙染に投降した。趙染は司馬模の罪状を責め立て、劉粲の所へ送り、劉粲は司馬模を殺した。司馬模の妃の劉氏は胡人の張本に妻として賜給された。子の司馬保は南陽王の爵位を継いで漢に対抗した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬模」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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