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司馬 光(しば こう、1019年(天禧3年) - 1086年(元祐元年)9月)は、中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。字は君実。陝州夏県(山西省)の人。号は迂叟。また涑水先生と呼ばれた。諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」・「司馬文正公」と呼ばれることも多い。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。 == 生涯 == 1038年(宝元元年)に進士となる。父も祖父も進士であった。 1067年(治平4年)、神宗は即位し、王安石を用いて新法を断行する。当時、翰林学士の司馬光は当初改革には賛成であった。しかし、王安石が官僚の既得権を侵して政治の一新を図るやいなや、直ちに反対の立場に転じ、枢密院を根拠とした王安石反対派(いわゆる旧法派)と連係して強硬に新法の反対を主張した。司馬光は王安石の譲歩にも拘らず、新法の撤回を要求したため、遂に朝廷から退けられ、副都洛陽に事実上の隠居生活を送ることになった。これ以後、司馬光は、同じく新法に反対する同調者と共に、日夜新法の反対を主張して已まなかったと言われている。 このように朝廷の意向に反対の立場をとっていた司馬光であるが、先代の英宗以来、神宗からも絶大な信頼を得ていた。特に『資治通鑑』の編纂を思い立った後、英宗に特別の便宜を与えられてその完成を期待されていた。また神宗の新法に反対して都を出て行った司馬光であったが、逆に神宗から「資治通鑑」なる名を貰っている。なお、この書は司馬光の洛陽隠棲時に完成した。 1085年(元豊8年)、神宗が崩御して哲宗が10歳で即位すると、摂政宣仁太后高氏の命により、宰相となって中央に復帰した。この時、司馬光は、新法を全面的に廃止し、全て新法実施以前の法に戻すべく政権を運営したが、余りの極端さに、同じく新法の廃止を主張する蘇軾などの友人・部下からも反対されるほどであった。併し司馬光の名声は天下に鳴り響いていたこともあり、多くの官僚が司馬光の発言に阿諛迎合し、遂には新法諸政策の中の根幹の一つであった役法を変更するに及び、その弊害は以後十年近くに渡って影響した。斯くして新法の廃止に全力を注いだ司馬光であったが、在任8ヶ月にして病死した。死に際しては、知見未見を問わず、多くの人々が惜しんだと、旧法派関係の史料は口を揃えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬光」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sima Guang 」があります。 スポンサード リンク
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