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元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。宣帝司馬懿の曾孫、瑯邪武王司馬伷の孫に当たる。また、母方を通して夏侯淵の玄孫でもある。 == 生涯 == 河内郡温県の人。西晋の瑯邪恭王司馬覲の子として洛陽に生まれる。生母は夏侯光姫(字は銅環、魏の夏侯威の孫)。弟に東安王司馬渾がいる。15歳で琅邪王に封じられる。建武元年(304年)、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗し恵帝と共に鄴で司馬穎の監視下に置かれた、保身のために鄴を脱出し洛陽で母に会い共に封国の琅邪に戻った。途中、黄河の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の馬を鞭でこづきながら「舎長(食客の世話人)! 政府は貴人の通行を禁じているそうだが、貴様も止められたのか」と言って笑って見せた。その様子を見て、役人は通行を許した〔『晉書』巻六「元帝紀」〕〔宮崎市定 『大唐帝国 中国の中世』 中公文庫 ISBN 4122015464、144p〕。 司馬穎が東海王司馬越に殺害された直後に、司馬越により永嘉元年(307年)に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。 永嘉4年(310年)、洛陽の危機状況から寿春に居た征東将軍の周馥は寿春への遷都を計画したが司馬越の命を受けて討伐し懐帝の江南遷都を不可能にした。 永嘉5年(311年)、懐帝が匈奴系である漢の捕虜となり平陽に連れ去られると、司空の荀藩(荀勗の子)から推されて盟主となった。江州刺史の華軼が服従しなかったので討伐して江州を支配下に置いた。建興元年(313年)懐帝を継いで愍帝が即位すると、丞相・大都督中外諸軍事となり江東の政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。 建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると(永嘉の乱)、当時丞相・大都督中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した〔厳密には、当時、琅邪王・司馬睿の他にも、南陽王・司馬保、譙王・司馬承、西陽王・司馬羕ら幾人の晋宗室王は健在であり、また晋宗室王の何人かは混乱の中で司馬睿と共に長江を渡り東晋建立に尽力しており(五馬渡江)、東晋の時代も引き続き王室の一角を支えている。〕。これが、東晋の元帝である。 しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄に当たる王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗と刁協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年(322年)に逆に王敦に反乱を起こされ、前述の刁協や、ほかにも重臣であった戴淵、周顗らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。 それからほどなくして、48歳で崩御した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元帝 (東晋)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Yuan of Jin 」があります。 スポンサード リンク
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