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司馬 騰(しば とう、? - 307年)は、中国西晋の皇族。字は元邁。新蔡王の地位にあった。司馬懿の4弟である司馬馗(季達)の孫で高密王司馬泰(子舒)の子。兄に八王の乱を終結させて政権を握った東海王司馬越、弟に司馬略、司馬模らがいる。子は司馬虞・司馬矯・司馬紹・司馬確ら。 == 生涯 == 若くして冗従僕射・東嬴公に封じられ、南陽郡・魏郡太守を歴任して赴任先で仕事ぶりを称えられる。そのため中央に召されて宗正・太常・持節・寧北将軍・都督并州諸軍事・并州刺史に昇進した。并州刺史時代に奴隷狩りを行ない、石勒を山東の漢人に奴隷として売り渡した事もある〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P63〕。 八王の乱では当初目立った動きはしなかったが、304年に兄の司馬越が司馬熾を擁して挙兵し、当時皇太弟として政権を握っていた成都王司馬穎に司馬越が敗北すると、司馬騰は兄に加担して安北将軍王浚と共に鄴を攻めて司馬穎を支持する和演や王斌らを破った〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P57〕。司馬越が八王の乱を終結させると西晋では体制の再建が行なわれて司馬騰は東燕王から新蔡王に改封され、車騎将軍・都督鄴城守諸軍事に任命されて鄴に出鎮して北方異民族と対峙する事になった。 司馬騰は河北で漢(前趙)を建国して勢力を拡大する劉淵と戦うが敗北し、河東地域を奪われて鄴に迫られた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P58〕。これを見て亡き司馬穎の旧臣汲桑・李豊・公師藩らが清河郡で挙兵して頓丘を攻略して鄴に迫った。司馬騰は鎮圧のために出陣したが李豊に敗れ、わずかな騎兵を率いて逃走するも殺害された。 死後、長男の司馬虞は父親の敵討ちとして李豊を自殺に追い込んだが、李豊の残党による反撃により司馬虞・司馬矯・司馬紹・崔曼・羊恒・蔡克ら司馬騰の一族家臣は悉く殺害されてしまった。司馬騰の家系は唯一生き残った庶子の司馬確により継承された。 司馬騰は并州刺史を7年間も務め、さらに鄴にも赴いて異民族と対峙するなど西晋皇族の中では重要な役割を果たしていたが、非常に吝嗇で部下に恩給を施す事が少なかった為に人望は乏しかったという。諡は武哀王とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬騰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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