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吉原 宏太(よしはら こうた、1978年2月2日 - )は、大阪府藤井寺市出身の元プロサッカー選手。ポジションはフォワード。元サッカー日本代表。 == 来歴 == 初芝橋本高校のエースとして、第74回全国高校サッカー選手権に出場。同大会開幕前までにどのチームとも契約に至っておらず、本人はこの大会を「就職活動の場」と語っていた。結果的にこの大会でチームをベスト4に導き、自身も得点王に輝いたことで卒業後、1996年当時ジャパンフットボールリーグでJリーグ昇格を争っていたコンサドーレ札幌に入団。同期入団に吉成大がいる。プロ入りできた褒美として、大阪の会社社長の実父から赤いポルシェをプレゼントしてもらった。1997年は出場試合数こそ15試合にとどまったが、5月18日の大塚製薬(現・徳島ヴォルティス)戦で自身初のハットトリックを達成するなど札幌のJリーグ昇格に貢献。そしてチームも自身も初のJリーグ挑戦となった1998年、3月21日の清水エスパルス戦にてJデビューを果たす。しかし、1999年のJ2開幕に向けた残留争いのルールが、同年に遅れてJリーグに参入した札幌にとって不利な条件だったこともあり、札幌は翌年からJ2での戦いを余儀なくされてしまう。その1999年、札幌に残留した吉原は5月2日のヴァンフォーレ甲府戦でハットトリックを達成するなど順調に得点を重ね、J2所属にもかかわらずフィリップ・トルシエ監督が指揮するU-22オリンピック代表に選出される。また、中山雅史が大会直前のアルゼンチン合宿で負傷離脱したためコパ・アメリカ(南米選手権)に追加招集、7月2日のパラグアイ戦にて唯一のフル代表キャップも記録している。このシーズンは自身は代表での離脱がありながらも15得点を記録したもののチームは昇格を逃したためJ1でのプレーを希望、オファーがあり故郷にも近いガンバ大阪に移籍した。 G大阪移籍後、2001年、2002年はマグロンとのコンビで2年連続二桁得点を記録するなどコンスタントな活躍をみせる。だが2003年からは、大黒将志が台頭、また翌年以降も新たに加入したフェルナンジーニョ、アラウージョらの牙城を崩すことが出来ず控えに回ることが多くなり、また西野朗監督との意見の相違(守備を怠る王様気取り)もあり出場機会が激減。出場機会を求めて2006年からは大宮アルディージャに移籍した。大宮では2007年に5得点をあげチーム得点王になるものの、負傷の影響もあり期待された活躍をすることは出来なかった。 2008年シーズンをもって大宮から戦力外通告を受け移籍リストに掲載され、2009年、水戸ホーリーホックへの加入が2月18日に発表された。 水戸では移籍1年目から活躍。数少ない日本代表経験者として精神的にもチームを支えていたが、2010年のシーズン終盤に左アキレス腱断裂の大怪我を負う。翌シーズンの8月に復帰するものの、11月には肋骨骨折と肺挫傷の怪我を負い再び戦線離脱した。 2012年には戦列に復帰するものの本来のプレーを見せることが出来ず、同年限りで退団。自身の35歳の誕生日である2013年2月2日に現役を引退すると発表した〔吉原 宏太選手 引退のお知らせ 水戸ホーリーホック 2013.02.02〕。 2013年より、株式会社クラッキから派遣という形で、古巣のコンサドーレ札幌のスクールコーチに就任〔吉原宏太 氏 コンサドーレ札幌スタッフに就任のお知らせ 〕。コンサドーレ札幌公式情報番組「WEEKLY CONSADOLE」(スカパー!)MC。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉原宏太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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