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吉原 正喜(よしはら まさき〔『野球殿堂博物館』ホームページ〕/まさよし〔『プロ野球人名事典 1999』536ページ、『日本人名大辞典』講談社ほか〕、1919年1月2日 - 1944年10月10日)は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(捕手)。 川上哲治と高校時代にバッテリーを組んでおり、巨人入団の同期でもあった。 1978年に野球殿堂入り。 == 来歴 == 本荘小学校時代は、少年野球で4番・捕手を務める。熊本工業に入学すると、川上哲治と同クラスとなる。2年生で正捕手となって、1934年の甲子園に出場し、決勝戦で藤村富美男を擁する呉港中に敗れて準優勝。主将として出場した1937年の甲子園では川上とバッテリーを組むが、決勝戦で野口二郎を擁する中京商業に惜しくも敗れ、2度目の準優勝となった〔『プロ野球人名事典 1999』536ページ〕。 また、同年に行われた第9回明治神宮中等野球大会では、痔の悪化で医師から試合に出場できる状態ではないといわれながらも、吉原は激痛をこらえて全試合に出場し、大活躍の末に中京商業に雪辱し優勝した。バッテリーを組んだ川上によると、試合後の吉原のユニフォームのスボンは、血で真っ赤に染まっていたという〔澤宮優『巨人軍最強の捕手』晶文社、2003年、P56-67〕。 熊本工業でバッテリーを組んだ川上と共にに東京巨人軍に入団〔。中山武・内堀保が次々と応召して正捕手不在であった巨人の本命は吉原で、鈴木惣太郎が勧誘のために熊本まで行くほどであったが〔『巨人軍の男たち』60ページ〕、吉原が「川上と一緒でなければ入団しない」と言ったことから、川上と揃って入団することとなったという。その後、南海が熊本工業の先輩捕手であった中村民雄を介して、吉原を入団させようと画策していたところを、鈴木は南海監督の高須一雄に対して吉原から手を引くように申し入れた。当時は南海も日本職業野球連盟への新規加盟を希望していたことから巨人の意向を無視できず、やむなく承諾したという〔澤宮優『巨人軍最強の捕手』晶文社、2003年、P55〕。 新人の春季より正捕手を務め、限りで退団するまで全年度で規定打数(今で言う規定打席)に到達。 強肩に加え〔、何より闘志あるプレーでヴィクトル・スタルヒン、沢村栄治、中尾輝三ら巨人投手陣を牽引〔『巨人軍の男たち』61ページ〕。また俊足で、には30盗塁(リーグ3位)を記録。打撃でも1941年には打率.250(リーグ6位)、4本塁打(同3位)の好成績をあげるなど、1938年秋季より1941年までの巨人の4連覇に大きく貢献した。応召のため、1941年限りで退団。 第二次大戦でビルマを転戦した際、吉原伍長の前の正捕手であった内堀保と面会を果たし、戦後の巨人再建を誓い合った〔『巨人軍の男たち』55ページ〕。また、ビルマでは戦後巨人のエースとなった川崎徳次とも面会し、痔に苦しんでいた川崎に薬を調達したという。1944年10月10日にインパール作戦終結後のビルマ(拉孟・騰越の戦い)で戦死したが、遺骨は発見されていない。遺族には弟・姉妹がいた。墓所は熊本市西区にある本妙寺内にある。 1978年に野球殿堂入り。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑にも、その名前が刻まれている。また、2008年夏には、母校の熊本工業高校の野球部グラウンドのバックネット裏に、川上とともに吉原のモニュメント及び塑像が作られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉原正喜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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