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吉原 重俊(よしはら しげとし、弘化2年4月10日(1845年5月15日) - 明治20年(1887年)12月19日)は、江戸時代末期(幕末期)の薩摩藩士、明治の官僚、日本銀行初代総裁。薩摩藩藩校造士館に学んだ攘夷派の志士であったが、薩摩藩第二次米国留学生としてアメリカ合衆国イエール大学初の日本人留学生として政治・法律学を学ぶ。岩倉使節団にワシントンで現地参加し、帰朝後は外務省書記官となり、大蔵省に転じて大蔵卿松方正義の下で活躍した。横浜税関長、租税局長を務め初代の日銀総裁となった。 == 来歴 == 弘化2年(1845年)4月、鹿児島の西田村之内字常盤で生まれた。幼名は彌次郎、幼くして藩校・造士館に学び、8才の頃には秀才の名が高かった。 文久2年(1862年)4月10日の薩摩藩主の父・島津久光上洛のおり、随行者として大坂藩邸に入った。しかし、同年4月23日に京都伏見の寺田屋に攘夷派志士として最年少の16歳で参加(寺田屋事件)したため、鹿児島へ送還され謹慎処分となった。なお、『大久保利通日記』には国元謹慎となった1人として吉原彌次郎の名で記されている〔『大久保利通日記』第二巻、日本史籍協会、126頁。〕。 ところが、同年8月21日に生麦事件が起き、その結果、翌文久3年(1863年)6月27日には鹿児島湾はイギリスの艦船に攻撃され薩英戦争が起きた。この戦いで重俊は謹慎処分を解かれ、大山巌や西郷従道らとともに西瓜売りに化けて英艦に近づき切り込もうと計画したが、君命により中止となった〔公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』中巻。560頁。〕。その後、重俊は藩から江戸に派遣され、函館の諸術調所で教えていた武田斐三郎から洋学を学び、更に横浜ではオランダ改革派教会宣教師のS.R.ブラウンに英語を学んだ〔W.E Griffis「A maker of the New Orient:Samuel Robbins Brown」。ブラウン牧師の伝記であり、彼はフルベッキ、ヘボン等とともに日本の若者達にキリスト教精神を伝えた。〕。 慶応2年(1866年)5月、グラバーの援助で長崎からポルトガル船に乗りイギリス経由でアメリカへ渡航した薩摩藩第二次米国留学生5名の1人(残りは仁礼景範、江夏嘉蔵、湯地定基、種子島敬輔)として参加。江戸幕府の目を逃れるため大原令之助と変名していた。彼らは喜望峰経由でイギリスに到着し、ロンドンで先年に渡航していた薩摩藩第一次英国留学生らと再会した後にアメリカ合衆国ニューヨークへと向かった。 ニューヨークでは、S.R.ブラウンの母校モンソン・アカデミーに木藤市助とともに入学し、イエール大学受験のための勉強を始めた。また、1867年の春、ボストン近郊のアンドーバーに新島襄を訪ね交流を深めた。1869年1月10日に、NY州オーバーン郊外のOwasco Outlet Dutch Reformed Church(Sand Beach教会)にてS.R.ブラウンの元で洗礼をうけクリスチャンとなった。その後、政府留学生の認可を受け、1869年からニューヘブンのイエール大学にて政治・法律学を学んだ〔犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』吉川弘文館、134~144頁。〕。 この頃、日本では明治維新を迎え新政府が樹立しており、明治3年(1870年)11月2日、普仏戦争の調査に赴いた政府の普仏戦争観戦武官団に随行して大山巌、品川弥二郎、中濱万次郎らと共にイギリスへ渡り、翌明治4年(1871年)ベルリン、フランクフルトを経由して休戦中のパリに入った。その後フランクフルトのビー・ドンドルフ・ナウマン社に明治政府が発注した明治通宝(ゲルマン紙幣)の印刷監督として赴任するため、同年3月10日、大山の見送りを受けて任地であるフランクフルトへと向かった〔大山巌伝刊行会編『元帥公爵大山巌』、1935年、339頁に「3月10日夜、元帥は『フランクフルト』に向かって出発する大原を停車場に送って左の一詩を贈った」とある。〕。 明治5年(1872年)、岩倉使節団がアメリカを訪れた際にワシントンへ急遽呼び戻され、外務三等書記官となった。辞令を受けたのは使節団がグラント大統領の謁見にあずかる僅か2日前だったといわれる。その後、全権委任状の下付をうけるため、大久保利通、伊藤博文に随行して帰国。再び渡米したがワシントンに到着した時には条約改正交渉は中止となり使節団は次の訪問国のイギリスへと旅立っていたため、重俊は外政事務取調べのため同地に留まった。 明治6年(1873年)3月12日、日本へ帰国後、外務省に入り外務一等書記官として在日米国公使館に勤務。その後、大蔵省に転じ、以後熟達した英語力と斬新な政治・経済の知識は大いに活用される事になった。明治7年(1874年)、租税助と横浜税関長を兼務し、大久保利通の清国出張に高崎正風、ボアソナードと共に随行して清国と交渉を行い、条約草案の起草にも携わった。 明治10年(1877年)、大蔵大書記官租税局長となった。西南戦争中は大久保利通の命を受けて熊本県に赴き、被害調査と難民救護に活躍した。明治11年(1878年)11月パリに出張し松方正義、上野景範、青木周蔵とともに不平等条約改定交渉に努めた。明治13年(1880年)2月28日、横浜正金銀行管理長、大蔵少輔に任ぜられる。 明治15年(1882年)10月6日、日本銀行が創立されると、松方正義に推せられ初代総裁に任ぜられた。明治18年(1885年)、外債募集のため10ヶ月間、欧米を回り外債募集の端緒を作ったが、明治20年(1887年)12月19日、42歳で現職のまま病死した。 重俊の業績としては、不兌換紙幣の回収整理を行い、手形、小切手の流通推進など近代的な金融制度の整備に努めた事があげられる〔吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』毎日新聞社、1976年、11~23頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉原重俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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