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吉岡信敬 : ミニ英和和英辞書
吉岡信敬[よしおか しんけい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

吉岡信敬 : ウィキペディア日本語版
吉岡信敬[よしおか しんけい]

吉岡 信敬(よしおか しんけい、1885年明治18年)9月1日 - 1940年昭和15年)12月7日)は日本の応援団員。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。
なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。
==経歴==
出生は山口県萩市河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。
1898年(明治31年)、早稲田中学校に入学し、野球部に籍を置く。プレーヤーとしてはけして上手くなかったが、応援活動に対しては熱心で、中学のみならず早稲田大学野球部の試合にも必ず顔を出して応援をしていた。早稲田高等予科生となっていた1905年(明治38年)、橘静二(後に早稲田大学学長・高田早苗の秘書)、吉田淳(後に朝日新聞記者)らと早稲田大学応援隊(当時は彌次、声援隊などといわれた)を結成し、隊長となる(橘・吉田の二人が副隊長)。以降、野球を中心に各種スポーツの応援には必ず姿を見せ、応援や場内整理にあたるようになる。この頃から「虎鬚彌次将軍」と呼ばれるようになり、バンカラの代名詞として、一学生でありながら東京のみならず日本全国の学生にまで名を知られる存在となっていった。1906年(明治39年)には応援の過熱がもとで早慶戦が中止になり(以後、1925年(大正14年)まで中止は続く)、このことで一部から批判を浴びるも、人気は衰えなかった。
1909年(明治42年)、親友の冒険小説家、押川春浪が主催したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に加入。同時期には春浪が主筆を務めた『冒険世界』『武侠世界』や安部磯雄主幹の『運動世界』といった雑誌に原稿を発表する。
1912年(大正元年)、早稲田大学を中退し、志願兵として麻布第一連隊に入営。除隊後は読売新聞などに勤めた。
春浪が1914年大正3年)に死去してからは天狗倶楽部とは距離をおくようになり、『冒険世界』や『武侠世界』で執筆をすることも減っていく。横田順彌はこれについて「信敬には、自分の行動が元で早慶戦が中止になってしまったという負目があり、実際、天狗倶楽部のメンバーの三分の一は、当時の早稲田野球部員で構成されていたから、その両者のパイプ役であった春浪の死によって、信敬は居づらくなったのだろう」と推測している(『明治バンカラ快人伝』、光風社出版、1989年)。以降は、時折雑誌のインタビューなどに登場することはあっても、以前のように表舞台には現れることはなくなった。
1940年(昭和15年)12月7日死去。57歳。墓所は雑司ヶ谷霊園

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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