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吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日 - 1930年3月19日)は、日本海軍の軍人。海軍中将。 == 経歴 == 1869年(明治2年)5月、肥後国(現熊本県宇城市小川地区)に、肥後藩士の長男として生まれる。済々黌卒業。1891年(明治24年)海軍兵学校18期を卒業し、海軍少尉となる。日清戦争では軍艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍。「富士」回航委員などを経て、1901年(明治34年)海軍大学校2期を卒業。1904年(明治37年)海軍少佐となり、日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦した。1912年(大正元年)大喪儀海軍事務委員、海軍演習審判官となる。 「橋立」艦長を経て、1914年(大正3年)8月23日に「浅間」艦長に補される。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日であり、吉岡は第一次世界大戦に出征する。当初は山屋他人率いる第1南遣枝隊に属してシュペー率いるドイツ艦隊の捜索にあたり、また南洋群島の占領作戦に従事した〔『海戦史に学ぶ』「ドイツ太平洋艦隊との海戦」〕。次いで森山慶三郎率いる遣米枝隊に属して南米から北米にかけての通商保護にあたる。しかしメキシコ沖で、海図にない暗岩などが原因で座礁事故が起きている〔『浅間、日進座礁査問付査定書(2)』〕。 1915年(大正4年)12月に「筑波」艦長となる。同艦は翌年実施された観艦式において大正天皇のお召艦となった〔『拝謁名簿』〕。「金剛」艦長を経て、1917年(大正6年)海軍少将に昇進し、教育本部第2部長となる。1919年(大正8年)第1艦隊参謀長、1920年(大正9年)連合艦隊参謀長を経て、1921年(大正10年)海軍中将、海軍砲術学校長となり、1923年(大正12年)将官会議議員などを歴任し、1924年(大正13年)予備役となる。 海軍中将正四位勲二等功四級。砲術の神様とも呼ばれた。1930年(昭和5年)死去。戒名は誠忠院殿篤翁適中大居士、墓は熊本県宇城市小川町蓮仏にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉岡範策」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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