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吉岡 隆徳(よしおか たかよし、1909年(明治42年)6月20日 - 1984年(昭和59年)5月5日)は、昭和初期に活躍した陸上短距離選手である。東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業。元東京女子体育大学教授。本名である「たかよし」のほか、通称で「りゅうとく」とも呼ばれた。身長165cm、体重61kg〔Takayoshi Yoshioka Olympics at Sports-Reference.com > Athletes > Takayoshi Yoshioka〕。 == 経歴 == 1909年6月、島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現・出雲市)で神官の四男として生まれ、小学校卒業後に斐川町(現・出雲市)の吉岡家の養子となる。旧制島根県立杵築中学校(現・島根県立大社高等学校)から島根県師範学校に進む〔保阪、pp.13 - 14〕。師範学校本科1年のとき、陸上競技の指導で来県していたパリオリンピック100メートル競走代表の谷三三五にスプリンターとしての才能を見いだされる〔。島根県師範学校から東京高等師範学校に進学。東京高等師範時代の1930年5月、第9回極東選手権競技大会の男子100メートルに日本選手として初めて優勝した。それまでこの大会の男子100メートルはフィリピン選手の独擅場であったが初めて打ち勝ち、晩年の吉岡は現役時代の「思い出に残るレース3つ」の1番目に挙げていた〔保阪、pp.21 - 23〕。1ヶ月後の6月、京城府(現・ソウル特別市)で開かれた競技会で10秒7の日本タイ記録をマーク〔保阪、p.19〕。この記録は翌1931年4月に南部忠平が10秒6で更新するが、吉岡はその1ヶ月後に10秒5を出して王座を奪い返した〔。 1932年8月、第10回ロサンゼルス五輪で、東洋人初の100メートル競走6位入賞を果たした。以降、日本人のオリンピックの短距離種目での決勝進出者は1992年のバルセロナオリンピック400m走での高野進まで現れなかった。このロサンゼルス五輪の100メートル走で金メダルをとり、「深夜の超特急」と呼ばれたエディ・トーランにちなんでスポーツライターの川本信正(当時読売新聞記者)がつけた暁の超特急という呼び名は有名である。当時世界トップレベルのスタートダッシュを誇った。 オリンピック翌年の1933年9月に自己記録を0秒1更新する10秒4を記録。 1935年6月9日(南甲子園運動場、関東近畿フィリピン対抗陸上競技大会)と6月15日(明治神宮外苑競技場、日比対抗戦)には10秒3の世界タイ記録(他にラルフ・メトカーフらを含む4人が記録)を達成。この記録は日本陸上界の短距離走が世界に追いついたことを意味する非常に意義のあるものだった〔当時はまだ手動計時の時代であり、現在の電気計時に換算すると、吉岡の記録は概ね10秒54に相当する。〕。 その翌年のベルリンオリンピックには日本中からメダル獲得の大きな期待を寄せられて出場したが、それがプレッシャーとなり、10秒8の平凡な記録で2次予選落ちしてしまう。その結果に責任を感じた吉岡は自殺まで考え、ノイローゼ寸前になった。しかし日本で迎えた小学生に「吉岡選手、悲観するな。この次のオリンピックで頑張ってください」と励まされたことで再び競技の道に戻ることができた。現役時代、日本陸上競技選手権大会の100メートルに、1931 - 32年、1935年、1938 - 1940年の6回優勝。この優勝回数は神野正英に破られるまでは最多記録で、2014年現在も歴代2位である。 現役を退き1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任。1945年8月6日には同校学生を連れて東洋工業内で勤労奉仕中、原爆投下に遭うが、爆心地から10km離れていたため自身に大きな怪我はなかった。しかし中心部に残った家族に会うため、途中瀕死の人達を無視し先を急いだ自身の行動にショックを受け教職を捨てた。戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わった。また1952年には、広島カープの初代トレーナーを勤めるなど当地のスポーツ界に功績を残した。 こうして裏方の仕事を続けるうち指導者としてベルリンの屈辱を晴らしたいと強く願い、リッカーミシン陸上部監督として55歳で陸上の現場に復帰。飯島秀雄や依田郁子らを指導した。東京オリンピック終了後にリッカーミシンを辞し、1970年に東京女子体育大学の教授となった〔保阪、p.44〕。吉岡は「100メートルは私の一生の友です。齢をとったからといって、この友と別れるわけにはいかない」と、高齢になっても100メートルをどの程度の記録で走れるかにこだわり、マスターズ大会や東京女子体育大の運動会に出走した〔。70歳の東京女子体育大運動会では15秒1を記録している〔。しかし、1983年6月にアキレス腱を切断して入院〔保阪、p.10〕。当初は負傷した足の治療が目的であったが、そのまま病の床に就き、1984年5月5日午後3時10分、東京都立府中病院(現・東京都立多摩総合医療センター)にて胃がんのため死去。葬儀は5月8日に三鷹市内の寺院で営まれ、陸上関係者を中心に大勢の弔問客が訪れた。 島根県では毎年、「吉岡隆徳記念出雲陸上競技大会」および小中学生対象の「吉岡隆徳賞記念短距離記録会」が開催されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉岡隆徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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