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吉川幸次郎 : ミニ英和和英辞書
吉川幸次郎[よしかわ こうじろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

吉川幸次郎 : ウィキペディア日本語版
吉川幸次郎[よしかわ こうじろう]

吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者京都大学名誉教授
== 生涯 ==
兵庫県神戸市の貿易商の次男に生まれる〔親戚には、西洋美術史家の吉川逸治がいる〕。中宮小学校を経て諏訪山小学校を卒業した。1916年大正6年)に神戸第一中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)〔今日出海白洲次郎などが同級生であった。〕入学後は、「史記」「水滸伝」「西遊記」「三国志」などの訳書に親しんだ。
1920年(大正9年)、第三高等学校文科甲類へ進み、雑誌『支那学』の同人だった青木正児の知遇を得、また現代中国語を学び、1923年(同12年)、大学進学の休みに中国江南を旅した。中国へ傾いたのには、芥川龍之介佐藤春夫の影響もあった。
大学は京都帝国大学文学部文学科、狩野直喜鈴木虎雄考証学・中国語学・古典中国文学を学んだ。1926年(大正15年)卒業論文『倚声通論』を漢文で書き、大学院に進み唐詩を研究した。
1928年昭和3年)から1931年(同6年)まで、先輩格の倉石武四郎北京に留学し、帰国後東方文化学院京都研究所(後の東方文化研究所、現在の京都大学人文科学研究所)所員となり、京大文学部の講師を兼ねた。この頃『中国』に徹するため、倉石とともに、当時のシナ服で暮らし中国語で会話し中国語で論文を書いた。
孔子を尊敬し、儒者として処世した。(あざな)として『善之』を生涯用いた。1932年(昭和7年)中村ノブと結婚し左京区に終生在住した。愛煙家で酒徒でもあった。
1935年(昭和10年)から1941年まで倉石・小川環樹らと、孔穎達著『尚書正義』(尚書の注釈書)の定本を作るための会読を続け、1939年から1945年にかけて東方文化研究所から発行された『尚書正義定本』や、1940年から1948年にかけて岩波書店より発行された『尚書正義』の日本語訳などに実った。1939年から1947年まで、最初は青木正児が指導して『元曲辞典』編纂のため、の臧懋循(そうぼじゅん)の『元曲選』を会読し、その成果の一部は、1951年1976年1977年に京大人文科学研究所より発行された『元曲選釈』に実った。この頃から、日本語の論文を発表し、一般向けの啓蒙書も出版していった。
1947年『元雑劇研究』により文学博士号を得、同年京都大学に移って文学部教授となった。先任に倉石武四郎がいた。
1949年母校旧制神戸一中の後身、兵庫県立神戸高等学校の校歌『わこうどは まなびやをたかきにぞおけ』を作詞。初の日本語の詩であった〔『決定版吉川幸次郎全集27』p.412〕。
1951年日本学術会議会員になった(1963年まで)。NHKラジオの文化講座で、『中国の文学』を講義した。1952年国語審議会委員に就いた(1956年まで)。
サンフランシスコ平和条約締結後の1954年国務省に招かれ、アメリカに遊んだ。
1956年-1958年は、京都大学文学部長。1958年NHK番組の教養大学で、『中国文学入門 - 詩を中心として』を講義。1959年日本中国学会理事長(1963年まで)。1960年モスクワの『国際東洋学者会議』に参加し、ヨーロッパを回った。1962年コロンビア大学の客員教授として約4ヶ月ニューヨークに滞在した。
1964年日本芸術院会員、1966年東方学会理事長(1975年からは没時まで会長)。1966年NHKラジオで『論語』を講義した〔新版で、『「論語」の話』、ちくま学芸文庫(2008)〕。
1967年『杜甫の詩論と詩』を最終講義として京大を停年退官、名誉教授。杜甫に取り組み、杜詩を読む『読杜会』と学生相手の『小読杜会』とを始めた(ともに1979年まで)。前者には足利惇氏大山定一野間光辰らが集った。
1968年から1970年に、『吉川幸次郎全集』を自ら編み刊行。1969年文化功労者フランス学士院からスラニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien)賞を贈られ、1970年NHK放送文化賞1971年朝日賞
この頃から江戸期の儒学者、伊藤仁斎伊藤東涯荻生徂徠新井白石らの研究著述も進めていった。特に本居宣長は、「漢文は中国の発音で読み下すべき」とする信条の先覚として、戦前から私淑していた。
1974年勲二等旭日重光章1975年外務省の学術文化訪中使節団団長として40年ぶりに訪中。
1977年より杜甫全詩の訳注を目指し、『杜甫詩注』を刊行開始。翌年NHK教育テレビで『杜甫詩抄』を26回講義した。
1979年に、再度中国文学研究者訪華団団長として3週間中国を巡った。その4ヶ月余り後に、胃を一部切除の手術。1980年2月に『杜甫私記』を刊行、4月8日、癌性腹膜炎により没す。法名「文徳院釈幸善」。大谷本廟での葬儀・同墓地に埋葬された。没後従三位勲一等瑞宝章が授与。コロンビア大学でも追悼会を催した。
弟子たちには、竹之内静雄〔筑摩書房役員で、故に創業当初より著作・訳書、「全集」を編集刊行した。〕、黒川洋一竹内実清水茂入谷仙介高橋和巳一海知義筧久美子筧文生興膳宏〔2009年から東方学会理事長〕、村上哲見井波律子ら多数がいる。実子吉川忠夫は、中世中国史魏晋南北朝六朝期)学者で、東方学会会長を務めた(第10代、2009年秋から2011年秋まで)。
蔵書の一部は、生まれ故郷の神戸市立中央図書館に寄贈され「吉川文庫」として所蔵されている〔蔵書目録に『吉川文庫漢籍目録』神戸市立中央図書館編、1985年と、『吉川文庫洋書目録』神戸市立中央図書館編、1988年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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