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吉川 経幹(きっかわ つねまさ)は、江戸時代末期の周防国岩国領の第12代領主、のち岩国藩初代藩主。 第11代領主・吉川経章の長男。岩国立藩以後の官位は従五位下、駿河守。 天保15年(1844年)1月14日に家督を継ぐ。聡明で、弘化4年(1847年)には藩校・養老館を創設する。吉川広家以来疎遠な関係にあった本家の長州藩毛利家との融和に努めた。幕末の動乱の中では懸命に本家を輔け、元治元年(1864年)の第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐でも芸州口の戦いで功績を挙げ幕府軍を撃退することに貢献している。慶応3年(1867年)3月20日に死去、享年39。 その死は長州藩主・毛利敬親の命により秘匿され、新政府も慶応4年(1868年)3月13日にこの経幹が生存しているものとしてこれを城主格の諸侯と認めた。ここに亡き経幹は廻り廻って江戸時代を通じての悲願だった岩国藩6万石の藩主となる。その上で経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男・経健に「家督を譲って隠居した」ことにし、3か月後の明治2年3月20日(1869年5月1日)になってその死が発表された。法号は有挌院春山玄静。墓所は岩国市横山の洞泉寺山墓地。経幹が長州征伐の折に仲介役として立ち会った長州藩と幕府・諸藩の間で交渉を詳細に記録した『周旋記』(吉川経幹周旋記)は当時の事情を知る上で貴重な一級史料である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉川経幹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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