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吉川霊華 : ミニ英和和英辞書
吉川霊華[はこやのしょし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [れい]
 【名詞】 1. soul 2. spirit 3. departed soul 4. ghost 
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal

吉川霊華 : ウィキペディア日本語版
吉川霊華[はこやのしょし]

吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年5月4日 - 昭和4年(1929年3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。
大和絵を基本にしつつ広く東洋古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。
== 略歴 ==

=== 生い立ちから10代 ─個の形成期 ===
東京都湯島佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている〔「吉川霊華追悼座談会」『中央美術』十五巻五号、1929年5月。『吉川霊華遺文』に再録、pp.190-191。〕。父は維新後、一時深川八幡社神官を務めた後、「橘香塾」という私塾を開き、子弟を教育していた〔村松梢風 『本朝画人伝』。〕〔小川恭一編 『寛政譜以降 旗本家百科事典 〈第5巻〉』(東洋書林、1998年、ISBN 4-88721-307-7)p.3031には、「新規永々 吉川好七郎忠尚(よしかわこうしちろうちゅうしょう) 禄100俵(柳営補任) 下谷長者町1丁目(文久3年武鑑)(略)」そのすぐ下に「吉川圭三郎(父)吉川幸七郎」の項目がある。〕。
幼少より、詩文、画作に優れ神童と言われた。小学校を4年で辞め、漢学は父から仕込まれたものの、以後学校に通うことはなかった。かわりに、教養豊かな家庭環境や、父の蔵書を手当たり次第に読む程の読書好きと相まって独学的な傾向を育む。後にも小遣いや画料も残らず本代にかわったという。明治16年(1883年)8歳の時、近所の遊び友達の父・楊洲周延浮世絵の手解きを受け、「延景」の画号を受ける。明治22年(1889年)画の修行のかたわら書家中根半嶺に書を修め、「半谷」の号を受ける。翌年、父の知人で狩野晏信の子、狩野良信狩野内膳を祖とする、幕府の表絵師・根岸御行松家の画人。奥絵師・木挽町家の狩野勝川院雅信の門人(山下裕二監修 『狩野派決定版』(平凡社、2004年、ISBN 978-4-582-92131-1)付録の「決定版・狩野派系図」より)。〕から狩野派を習う。一時橋本雅邦や、次兄に連れられ洋画家小山正太郎にも師事するが、いずれも長続きしなかった。明治27年(1894年)頃、小石川白山下の南隠禅師に参禅、一説に霊華と号したのはこの頃だという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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