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吉弘鑑理 : ミニ英和和英辞書
吉弘鑑理[よしひろ あきまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かがみ]
 【名詞】 1. model 2. pattern
: [り]
 【名詞】 1. reason 

吉弘鑑理 : ウィキペディア日本語版
吉弘鑑理[よしひろ あきまさ]

吉弘 鑑理(よしひろ あきまさ / あきただ)は、戦国時代から安土桃山時代かけての武将豊後大友氏の家臣。初めの主君で後に義父となる大友義鑑と父・吉弘氏直(うじなお)から1字ずつ賜り、初めは鑑直(あきなお)を称した。
== 略歴==
吉弘氏は大友氏庶流の一族で、田原氏の分家筋でもある。1534年に父・氏直(当時19歳)が大内氏との勢場ヶ原の戦いで戦死したため、家督を継ぐ〔。1557年から死ぬまで大友宗麟の側近として活躍し、臼杵鑑速吉岡長増らとともに豊後の「三老」に列せられた。政務では肥前方分を務め、永禄2年(1559年)9月7日、吉岡長増、田北鑑生と共に龍造寺隆信神代勝利を和睦させた。〔田北鑑生・吉岡長増・吉弘鑑理連書状  神代勝利、龍造寺隆信宛 神代文書〕
智勇兼備の武将で、宗麟からの信任は厚く、筑前の軍権を与えられた。秋月文種の攻略や立花鑑載らの謀反鎮圧に参加、対毛利氏戦や1567年高橋鑑種討伐、1570年今山の戦いなど、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた。元亀元年(1570年)の龍造寺隆信の討伐の際、隆信は肥前担当の鑑理に降伏の使者を送るが、隆信の人なりを知る鑑理は一蹴し、次に戸次鑑連に降伏の使者を出したがやはり断られた。この時、鑑連に隆信が出した書状には、「鑑理のように頼み甲斐のない人はもういやいや」と書いている。
晩年は龍造寺隆信討伐に赴く途上で発病するなど病気がちであったようで、1571年に死去。翌日、宗麟は「治療、加持祈祷を尽くしたのだが」〔元亀2年(推定)6月8日 大友宗麟書状 吉弘鎮信宛 吉弘文書〕と鑑理の死を惜しんだ。家督は嫡男の鎮信が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉弘鑑理」の詳細全文を読む




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