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吉村秋陽 : ミニ英和和英辞書
吉村秋陽[よしむら しゅうよう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
: [よう]
  1. (adj-na,n-adv,n) way 2. manner 3. kind 4. sort 5. appearance 6. like 7. such as 8. so as to 9. in order to 10. so that 1 1. yang 1

吉村秋陽 : ウィキペディア日本語版
吉村秋陽[よしむら しゅうよう]
吉村 秋陽(よしむら しゅうよう、寛政9年2月4日1797年3月2日) - 慶応2年11月15日1866年12月21日))は、江戸時代後期の安芸広島藩出身の儒学者。広島藩筆頭家老三原浅野家の儒者。朱子学からのち陽明学を重んじた。は晋、は麗明。通称は重介、秋陽と号した。
== 経歴 ==
1797年寛政9年)、吉村三左衛門の三男として広島城下に生まれた。吉村家の本姓小田氏で、浅野長晟の広島城入り(1619年元和5年))以前からの浅野家家臣の家柄。秋陽は幼い頃から聡明で記憶力に優れ、国史を好んだという。15歳で山口西園(広島藩家老上田家儒者)に入門し、18歳で京都に出て伊藤仁斎古義学を修め、荻生徂徠古文辞学にも学んだ。1817年文化14年)に21歳で浅野家講学所(のちの修道館、現広島修道大学)助教に抜擢され、伊予国今治藩で講義したり、京都に頼山陽を訪ねるなど交流を深めたが、次第にこれらの古学に疑問を感じて、朱子学を奉ずるようになった。
1830年天保元年)、34歳のときに江戸へ赴き、佐藤一斎の門に入って陽明学に親しむようになる。のちに秋陽はこの頃を回想して述べている〔吉村秋陽「答林良斎書」『鳴鶴相和集』(池田草庵編)〕。
その初め徒に世儒の窼臼(慣例)を履みて、書を読み文字を作るを知るのみ。この時に当たり、交道頗る広し。然れどもその共に従事する所は、則ち未だ嘗て誇多闘靡の陋より出でず。年、而立を踰えて稍々厭ひ、心自ら安んぜず。乃ち東のかた佐藤氏の門に遊びて、その緒論を開くこと日あり。ここに於て始めて士君子の身を立つるの真の学問あるを知り、翻然として懲悔し、轅を回らし轡を調へて、以て途を康荘の衢(聖人の大道)に取らんと欲し、門を杜ぢ、兀々として省修することすでに十余載。

陽明学に転じた秋陽は翌1831年(天保2年)の暮れに郷里の広島へ帰り、講学所で教えるかたわら家塾「咬菜軒」を開いた。塾名は、洪自誠の著書『菜根譚』の由来でもある、朱熹の撰した『小学』の「善行第六」末尾にある「人、常に菜根を咬み得ば、則ち百事做すべし」という汪信民の語による。菜根、つまり硬くて筋が多い野菜の根を常食とする心意気があれば、あらゆることをなしうる。また、物事は咬みしめるほど真の味わいがわかる=本質がよく分かるという意である。
1836年(天保7年)には佐藤一斎の推薦で長府藩の督学となり、藩校敬業館で講義しながら藩政の儀にもあずかった。
1839年(天保10年)近習組となり十五石扶持。1842年(天保13年)には朝陽館教授・学館総裁となり二十石扶持。この年、佐藤一斎の招きで江戸へ赴き、昌平坂学問所の世話を委嘱されたが秋陽は固辞して翌年帰郷している。
1855年安政2年)致仕し、養子の駿(吉村斐山)に家督と教授職を譲った。1863年文久3年)、主家が三原城へ移るのに伴って広島から移居し、桜山山麓に屋敷を得て「細雨春帆楼」と称する塾を開いた。三原に移ってからも石見国大田周防国岩国讃岐国多度津など方々から招かれ講釈した。
慶応2年11月15日(1866年12月21日)病気のため70歳で没。墓所は三原の香積寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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