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吉松義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - 1988年7月5日)は日本の柔道家(講道館9段)。元・鹿児島県柔道協会理事長。 全日本柔道選手権で史上初の3回優勝(1952年、1953年、1955年)〔名勝負・名場面 講道館HP〕等の成績を残した、戦後を代表する柔道家の1人である。 == 経歴 == 鹿児島県鹿児島市出身。旧制鹿児島商業学校(現・市立鹿児島商業高校)時代に林岩三(のち講道館9段)から指導を受けた〔。林は白帯時代から吉松の才を見抜き、著書『柔道に生きる』の中で「吉松の柔道は、守勢の時は青竹のようにしなやかで、相手が力のバランスを崩すとすぐにビシっと弾き返す、攻撃と守備の区切りがない理想の動き」と絶賛している〔。吉松の代名詞ともいえるケンケン内股が完成されたのも、天性の柔軟な足腰が成せる業であった〔。 1935年から鹿児島商業を全国大会4連覇に導いたほか、相撲でも活躍し、5年次には全国大会を制して中学相撲の第20代横綱となり角界からも注目された〔。 武道専門学校(京都武専)に進学すると、在学中の1942年5月に橿原神宮外苑の建国会館で行われた東西学生対抗試合では西軍の主将を務め、羽鳥輝久(慶大)ら3人を抜いて西軍を逆転優勝に導いた〔。卒業後は鹿児島県警に入り警察官に〔。1948年の第1回全日本選手権では準決勝で武専の先輩である松本安市と対戦し、勝負がつかず抽選で決勝進出を逃した〔 〕。同年6月の第1回全国警察選手権では決勝で松本に雪辱を果たし、優勝を飾った。1949年の第2回全日本選手権では醍醐敏郎に跳腰返しで1回戦で敗れ、翌50年の第3回大会では2回戦で広瀬巌に大外刈で敗れた〔。 1951年の全日本選手権では、3連覇を目指す石川隆彦との準決勝でこれを大外刈に沈め、自身初の決勝戦に進んだ〔。決勝では醍醐敏郎と12分40秒に渡る死闘を繰り広げたが大外刈にいったところを切り返されて一本負けを喫した〔。身長181cm・体重110kgと堂々たる体躯に鋭い足技と冴えのある腰技を併せ持ちながらも全日本を獲れない吉松に対しては当時の専門家らも首を傾げ、「脚力不足によるものでは」とする見方が多数を占めた〔。そんな声が聞こえてか、吉松は地元鹿児島の城山にある三百段の石段の駆け登りを日課として脚力強化に努め〔〔、翌52年の全日本選手権では3回戦で“今牛若”と称された足技の達人大沢慶巳を大外刈で、準決勝戦で宿敵の醍醐を快心の内股で破り、決勝では石川に判定勝ちして念願の初優勝を飾った。この功績により、地元地方紙である南日本新聞から南日本文化賞(スポーツ部門)を受賞〔南日本文化賞 南日本新聞 2008年10月30日〕。 翌53年にも優勝を果たしたが、54年は体調不十分により準々決勝戦で柄本芳孝5段に判定で敗れた〔。 55年は既に落ち目とされていた下馬評を覆し〔、新鋭曽根康治5段や当時日の出の勢いであった夏井昇吉6段を下して制し、史上初の大会3度優勝を果たした〔後に神永昭夫が同じく3度優勝を飾り、2人の記録は1980年に山下泰裕が同大会で4度目の優勝を飾るまで破られなかった。〕。 35歳で出場した1956年の第1回世界選手権では、準決勝で若き日のアントン・ヘーシンクを開始わずか45秒で内股で一閃し、決勝で夏井昇吉に微妙な判定で敗れるものの銀メダルを獲得〔。この大会を最後に現役を引退した〔。 吉松は柔軟で恵まれた体格からの内股、大外刈、跳腰、払腰を得意とし、左右から技を繰り出す器用さも併せ持っていた〔。また吉松は、武専時代を除き東京や大阪といった大都市ではなく郷土の鹿児島で生涯を過ごした。稽古相手不足というハンデキャップを承知でのものであったが、選手として第一線で活躍する傍ら後進の指導にも当たり、地元の柔道発展に大きく貢献した〔。門下に全日本学生選手権2度優勝の松下三郎(のち講道館9段、全柔連専務理事)など。 1980年に鹿児島県警を退官してからも鹿児島市平之町で町道場を開く一方、鹿児島県柔道協会理事長を務めるなど地元柔道界のために精力的に活動した〔。 1988年7月5日午後5時50分、肝不全のため入院先の南風病院(鹿児島市長田町)にて他界〔。7月7日に執り行われた告別式には柔道関係者のほか一般市民も多く訪れ、鹿児島が生んだ英雄の死を悼んだ〔。 全柔連元広報委員長の横尾一彦は吉松の人柄について、「豪快な柔道と共に人間味豊かな笑顔と歯切れの良い話しっぷりが印象的だった」と述懐している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉松義彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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