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吉沢 京夫(よしざわ たかお〔1999年のニュース 、ステージウェブ、柾木博行、2015年6月2日閲覧。〕、1929年 - 1999年10月27日)は、日本の演出家、俳優、映画プロデューサーである〔〔大島, p.51, 186, 216.〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2015年6月2日閲覧。〕〔''Takao Yoshizawa'', インターネット・ムービー・データベース 、2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、文化庁、2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、KINENOTE, 2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、allcinema, 2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、日本映画データベース、2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、日本映画製作者連盟、2015年6月2日閲覧。〕〔''吉沢京夫''、テレビドラマデータベース、2015年6月2日閲覧。〕。旧漢字表記吉澤 京夫。劇団京の創立者・初代代表(1988年 - 1999年)〔〔東大・日本近代史研究会・部落問題 川村善二郎氏に聞く 、今西一、小樽商科大学、2010年7月15日付、2015年6月2日閲覧。〕。大島渚監督の『日本の夜と霧』への出演、若松孝二監督の『壁の中の秘事』での共同脚本・主演で知られる〔〔〔〔〔〔〔〔。 allcinema等での読み「よしざわ かつお」〔は誤りである〔。 == 人物・来歴 == === 左翼運動と新劇・映画 === 1929年(昭和4年)、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔。5歳年上の兄に「日本民話の会」の活動で知られる吉沢和夫(1924年 - )がいる〔。 第二次世界大戦初期に旧制中学校・芝中学校(現在の芝高等学校)に入学、戦後、同校を卒業して、1947年(昭和22年)4月、旧制高等学校・浦和高等学校(現在の埼玉大学)に入学した〔〔。当時2年上級に在籍した川村善二郎によれば、吉沢は1年生だった当時すでに論客であり、西田幾多郎やカール・マルクスの著作を援用して論じ、学生自治会の運動に入っていったという〔。兄・和夫が同年当時在籍した東京大学の歴研が開いた「日本歴史講座」を川村とともに、授業をさぼって聴講に出かけたこともあったという〔。1学年下の大野明男によれば、吉沢は「マルクス主義とY談とをゴチャマゼに語った」という〔大野, p.40.〕。1949年(昭和24年)3月、同校卒業後、同年4月に京都大学に進学する〔。同学在籍中の演劇仲間に、大島渚、戸浦六宏らがおり、吉沢は大島の評価としても「たいへんな理論派」だったという〔。 1953年(昭和28年)3月、同学を卒業すると、下村正夫、瓜生忠夫が主宰する劇団「新演劇研究所」に入団する〔〔。当時同劇団には、小松方正(1951年入団)、寺島幹夫(1952年入団)らがいた〔。1958年(昭和33年)に同劇団が活動を停止、解散すると、吉沢は、翌1959年(昭和34年)3月、劇団「新演」を結成して運動を継承、同劇団に参加した団員には寺島幹夫、仲村秀生、速水一郎らがいた。1960年(昭和35年)10月9日に公開された『日本の夜と霧』では、大学時代の旧友である大島渚の監督作に新演所属の左近允宏、速水一郎らとともに出演、小山明子演じる「中山美佐子」の夫で学生運動の活動家「中山勝彦」役を演じる〔〔〔〔〔〔〔。同作は公開4日目に上映中止になり、吉沢は、速水が同作を劇化した戯曲をもとに演出、翌1961年(昭和36年)6月15日 - 同27日、新宿厚生年金会館で公演を打った〔山田, p.233.〕〔左翼事典, p.473-474.〕。同年10月10日にTBSテレビで放送されたテレビドラマ『判事よ自らを裁け』(演出大山勝美)に左近、速水らとともに出演した〔。1962年(昭和37年)には、大島渚が東映京都撮影所で監督した『天草四郎時貞』にも出演している〔〔〔〔〔〔。このころ、寺島幹夫とともに新演を脱退、同劇団は活動停止に陥った〔。 新演の仲間であった寺島幹夫は、1963年(昭和37年)12月31日に公開された『不倫のつぐない』(製作新映フィルム、配給日本シネマ)前後から若松孝二の監督作に出演を始め、常連になっていたが、吉沢は、1965年(昭和40年)、若松の『壁の中の秘事』の脚本に初めて参加、日活の曾根中生とともに「大谷義明」名義でクレジットされ、さらには寺島とともに同作に出演した〔〔〔〔。同作は、同年6月25日から西ベルリンで開催された第15回ベルリン国際映画祭のコンペティション作品に選ばれ、上映された〔ベルリン映画祭 、世界大百科事典、コトバンク、2015年6月2日閲覧。〕。同作の選出については映画祭側と映連(日本映画製作者連盟)側でトラブルがあり、映連が推した別の2作を映画祭は予選で落選とし、独立系の若松プロダクションによる同作を選んだおかげで、映連は今後同映画祭には出品しない旨の通告をするに至った〔。一方、同作は、西ベルリンの業者がエントリしたものであったが、結果的には唯一の日本作品として同映画祭で上映され、従来「低俗」と断じられていた日本での独立系成人映画への注目が高まったとされる〔今村・新藤ほか, p.61.〕〔平沢・四方田, p.60-63.〕。このとき、吉沢は若松や配給元の関東ムービー配給社社長・桑原正衛とともに映画祭に立ち会っている〔。若松によれば、上映時にも激しいヤジが飛び、翌日の地元紙も酷評、日本の読売新聞にも「国辱」と書かれたが、吉沢は「日本一の論客」、若松の「すごいブレーン」として、同映画祭の審査員であった草壁久四郎らを相手に作品の側の論陣を張ったという〔若松, p.89.〕。吉沢は引き続き、若松の次作『歪んだ関係』に寺島とともに出演している〔60年代まぼろしの官能女優たち 、ラピュタ阿佐ヶ谷、2014年6月2日閲覧。〕。同作の脚本は前作同様「大谷義明」とクレジットされているが〔、この共同名義に吉沢が参加したかどうかは不明である。 『歪んだ関係』を配給した国映は、子会社に日本放送映画を持っており、吉沢は同社が製作した連続テレビアニメーション映画『冒険少年シャダー』に関わり、「オーディオ演出」とクレジットされ、同作は1967年(昭和42年)9月18日 - 1968年(昭和43年)3月16日に放映された〔。日本放送映画はやがて国映資本を離れ、渡辺清が代表を務める東京テレビ動画になり、同社が製作し、1971年(昭和46年)9月24日に公開された劇場用映画『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』では、吉沢も「企画」として参加、 土橋寿男とともにクレジットされた〔〔〔〔。同社はやがて解消され、日本テレビ動画として1972年(昭和47年)3月に改めて設立され、同社が製作し、不二家の時間で放映されたテレビアニメ映画『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』ではプロデューサー、同じく不二家の時間で放映されたテレビアニメ映画『モンシェリCoCo』ではプランナーとそれぞれクレジットされた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉沢京夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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