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吉田 兼右(よしだ かねみぎ)は、堂上家(家格は半家、卜部氏)である吉田家の8代当主(卜部氏24代)。〔名は「かねみぎ」と読む。「かねすけ」と読むのは誤りで、天理図書館吉田文庫に収める系譜や、『御湯殿上日記』(元亀元年9月28日条)にも「かねみぎ」と見える。〕 有職故実書籍『官職難儀』・神道書籍『兼右卿記』の著者。 == 経歴 == 少納言(非参議正三位)・清原宣賢(非参議・吉田兼倶の三男)の次男。神祇権大副兼侍従・吉田兼満の養子となった。子に神祇大副兼左衛門督・吉田兼見、神龍院梵舜。 官途は侍従・神祇大副兼右兵衛督・従二位。吉田家の当主だった兼満が大永5年(1525年)突然家を出奔したため、従弟にあたる兼右が10歳の若さで後を継ぎ、父宣賢が後見役となって唯一神道の道統を継承した。祖父兼倶以来の神道説を宣揚して、積極的に全国の神社・神職に対して宗源宣旨や神道裁許状を発行するとともに、地方のオトナ衆・氏子との交流を図って吉田家の家門拡大に努めた。特に周防大内氏・越前朝倉氏・若狭武田氏に招かれ神道伝授を行った。元亀4年(1573年)正月10日、58歳で薨去した。遺言により遺骸は吉田神社の近くに社壇を建てて唯神霊神と称して祀られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田兼右」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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