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吉田 兼敬(よしだ かねゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての神道家、吉田神社の祠官、吉田家当主。吉田兼起の子、徳川幕府第4代将軍家綱側室のお振の方は養女(実は姉)、子に兼章。幼名を万丸と称し、兼連と改めさらに元禄10年(1697年)兼敬と改めた。侍従、左兵衛督、神祇権大副をつとめ、享保14年(1729年)正二位。 == 経歴 == 祖父兼英は生来病弱で、大伯父萩原兼従は一子相伝の奥義を吉川惟足に伝授した。しかし、父兼起も伝授を受けることなく明暦3年(1657年)に卒去したため、幼くして家を嗣ぎ周囲の補佐を得て神道の教養を深めた。そして寛文5年(1665年)に諸社禰宜神主法度が発布され吉田家の権威が確立され、寛文8年(1668年)と同12年(1672年)に吉川惟足より返し伝授を受け、父祖の遺業の安定と拡充を図り家の基を固めた。また、霊元天皇に『祓本』を相伝、次いで東山天皇に『祓本』を講じ、『御奉幣』『八雲神詠口訣』などの相伝にも奉仕した。 著作には『神道大意』『塩釜社縁起』『椋五所大明神由来』などがある。その他、『日本書紀』神代巻、『中臣祓』『六根清浄大祓』などの注釈書も遺しており、歌人としても知られ歌集も伝えられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田兼敬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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