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吉田定房 : ミニ英和和英辞書
吉田定房[よしだ さだふさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ぼう, ふさ]
 【名詞】 1. tuft 

吉田定房 : ウィキペディア日本語版
吉田定房[よしだ さだふさ]

吉田 定房(よしだ さだふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代公卿
== 生涯 ==
父・経長大覚寺統に仕え、亀山上皇後宇多上皇の院政において院執権を務め、権大納言に昇った。こうした経緯から定房も早くから亀山上皇に仕えてその信任を得た。
正安3年(1301年)に後二条天皇の即位で皇位が大覚寺統に戻ると院評定衆及び伝奏に任ぜられて重用され、徳治元年(1306年)には後宇多上皇の院使として鎌倉へ派遣されている。また、後宇多上皇の子である尊治親王の乳父を務め(『増鏡』)、文保2年(1318年)に親王が後醍醐天皇として即位すると側近として仕え、北畠親房万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。その信任は後醍醐天皇の子である尊良親王の乳父を引き続き務めたほか、元応2年(1320年)には後宇多法皇、続いて元亨2年(1322年)には後醍醐天皇が定房の邸宅に行幸していることからも伺える。更に、元亨元年(1321年)に後宇多法皇が院政を停止して後醍醐天皇が親政を行うことを鎌倉幕府に申し入れる使者として鎌倉に派遣され、幕府の了承を得ることに成功している。
正中の変の際に後醍醐天皇の勅使として鎌倉に下向して幕府に後醍醐天皇が無関係であると主張し、その後は討幕のための密議を行う後醍醐天皇を諌めた。元徳2年(1330年)6月21日に後醍醐天皇から諸卿に対して意見を求められた際に定房は徳政の推進と倒幕を諌める意見書を提出した。醍醐寺三宝院に所蔵されていた文書の1つがその意見書(「吉田定房奏状」)の写しであると言われている。元弘元年/元徳3年(1331年)の元弘の乱では2度目の討幕の密議を六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に持明院統後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっているが、元弘3年/正慶2年(1333年)3月に各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に対して提出していることや鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。
建武政権においては定房は内大臣民部卿に任ぜられて恩賞方雑訴決断所の頭人を任されるなど、要職を歴任した。だが、延元元年/建武3年(1336年)に建武政権は足利尊氏によって倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の延元2年/建武4年(1337年)7月、北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されているが、この間の経緯に関しては一旦北朝に仕えた後に南朝に出奔したとする考えと、後醍醐天皇の吉野行きに同行もしくは直後に天皇の後を追って吉野に向かったもので解官は定房が南朝に仕えて京都に戻る見込みが無い現状の追認に過ぎないとする考えがある。同年9月に後醍醐天皇が吉野行宮で開いた賞月歌会に定房が参加してその和歌が『新葉和歌集』に採録されている。だが、この歌会から4ヶ月後に吉野にて65歳の生涯を閉じた。後醍醐天皇がその死を悼んだ歌が『新葉和歌集』に採録されている。
著作に日記『吉槐記』がある。また、弟の隆長が兄の言動を記した『吉口伝』を残している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉田定房」の詳細全文を読む




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