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吉田定経 : ミニ英和和英辞書
吉田定経[よしだ さだつね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [けい, たていと]
 (n) (weaving) warp

吉田定経 : ウィキペディア日本語版
吉田定経[よしだ さだつね]
吉田 定経(よしだ さだつね、保元3年(1158年) - 寛喜3年2月14日1231年3月19日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿権大納言吉田経房の長男。母は平範家の娘。従三位参議
== 経歴 ==
仁安2年(1167年)に後白河院判官代に叙爵。同3年(1168年)安房守。安元2年(1176年)には院分国の美濃国国司に任ずるが、平清盛による治承三年の政変において解官される。
文治元年(1185年五位蔵人。同3年(1187年))には壇ノ浦の戦いで逸失した天叢雲剣の最後の大捜索が行われ、定経は後白河院と九条兼実の間を頻繁に往来して、伝奏を務めている。同4年(1188年)には右少弁左衛門権佐を兼ね、三事兼帯を果たす。同年、父の経房が勧修寺流長者に任ぜられると、やがてその後継者と目せられるようになり、順調に公家社会に地歩を築いていった。のち蔵人頭を経て建久8年(1197年)に参議となり、正治元年(1199年)には従三位に叙せられた。しかし同年、菩提心を発し、天王寺にて出家法名は蓮位)。これに憤激した父・経房は定経を義絶し、その長男・資経を養子として吉田家の後嗣とした。
晩年は不孝な態度を改めない次男・経賢との確執もあり、決して穏やかではなかった。寛喜3年(1231年)、76歳で死去。日記として『西記』を遺している。また、勅撰歌人として『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に四首が採録される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉田定経」の詳細全文を読む




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