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吉田 幸兵衛(よしだ こうべえ、1836年(天保7年) - 1907年(明治40年))は、江戸幕末から明治にかけて活躍した横浜の実業家であり、横浜の代表的生糸売込商人である。 == 来歴 == 吉田幸兵衛は上野国山田郡大間々町(現群馬県みどり市)にて、大間々町の旧家であった吉田和五郎家の長男として生まれた。 吉田家は本家吉田権右衛門を中心とした有力な富農であり、吉田和五郎家はその分家である。 吉田家は農業のみならず商業、金融にも携わり、幸兵衛も十代の終わり頃より糸繭商をはじめ家業 を手伝い商売を会得していった。 家業の米、炭販売のため、江戸にたびたび行っていたが、横浜開港後は横浜に行き、故郷上州や奥州の糸を集荷し、横浜において販売する仕事に携わり生糸売込商の仕事を会得する。 特に万延元年(1860年)以降活動を活性化させるが、26歳のとき横浜出身の商人吉村屋忠兵衛から営業権を譲り受け、吉村屋幸兵衛として店を持つ。 文久元年(1861年)より、川越藩の藩専売を行う5つの御用商人(野沢屋、遠州屋、大橋屋、永喜屋、吉村屋)の一つとなり、川越藩の領地であった前橋近辺の前橋糸を主に取扱い、売込手数料収入を中心とした生糸売込商として急速に発展する。その後の藩専売廃止や普仏戦争により窮地に立った時期もあったが、幕末を乗り切ることに成功する。 明治維新後は明治政府により生糸貿易の発展がめざされ、そのための融資機関として明治2年(1869年)に設立された横浜為替会社の頭取となり、その後新たに明治5年(1872年)設置された第二国立銀行の設立にも他の有力生糸売込商人とともに大株主ともなり参画し、明治10年(1877年)に横浜に設立された生糸検査所設立にも協力した。 その後時期については諸説あるが、明治11年(1879年)に突然渋沢喜作に吉村屋の営業権を譲渡し引退する。 理由についてもはっきりしたことは不明であるが、当時は製糸方法が江戸時代からの座繰糸から、器械糸、改良座繰糸への転換点にあり、幸兵衛も奥州まで手を広げ、改良座繰糸の新しい流通経路の開拓をめざしたが対応しきれなかったとも言われる。しかしながら、その後渋沢喜作の渋沢商会が明治20年代にかけて生糸売込商として、原善三郎の亀屋や、茂木惣兵衛の野沢屋と並ぶほどとなり、吉村屋の地位をほぼ継承していたりと謎が多い。 営業権譲渡後は横浜の弁天通二丁目の店から本町六丁目に居を移し引退し、晩年は東京日本橋区浜町で隠居生活を送っていたが、明治40年(1907年)10月4日に気管支病で死去した。 墓地は横浜市鶴見区の総持寺にある。 吉田幸兵衛は多くの記録類を残したため、横浜生糸売込商人の実態解明のための多くの資料を提供している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田幸兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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