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吉田篁墩 : ミニ英和和英辞書
吉田篁墩[たかむら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [たかむら]
 (n) bamboo grove

吉田篁墩 : ウィキペディア日本語版
吉田篁墩[たかむら]
吉田 篁墩(よしだ こうとん、延享2年4月5日1745年5月6日) - 寛政10年9月1日1798年10月10日))は江戸時代後期の儒学者。幼名は虎之助。名は漢官。字は資坦、学生、学儒。通称は担蔵。別号に竹門、林庵、艾峰。水戸藩医吉田家6代目〔。
日本における考証学の提唱者、及び漢籍書誌学の開拓者として位置付けられている〔柏崎(1999) p.51〕。
== 生涯 ==
延享2年(1745年)4月5日〔東条(1882)〕、上総大多喜藩士藤井沢衛門定行の子として生まれた〔『水府系纂』巻29「吉田祐益某」 梅谷(1993)〕。水戸藩医吉田篤信と奥山氏の間に江戸小石川の藩邸に生まれた〔とするのは誤り〔。なお、大多喜藩の下屋敷も小石川にあったため、出生地が小石川の大多喜藩邸だったとすれば辻褄は合うが、今のところ江戸生まれとする根拠はない〔。
宝暦8年(1758年)4月23日、水戸藩側医慎斎吉田篤親の養子に入る〔。宝暦9年(1759年)、慎斎の死により家督を相続した〔。しかし、当時幼年だったため本禄100石は御預け、小普請組からのスタートとなり、その後も出世が進まないことに不満を募らせていった〔柏崎(1999) p.54-55〕。一度表医師に昇ったものの、安永5年(1776年)12月24日、粗暴な言動を理由に小普請組に降格となった〔。安永8年(1779年)6月29日、目付と喧嘩し、嘲弄したとして遂に藩から追放され、先祖の苗字佐々木を名乗った〔小宮山楓軒『楓軒紀談』第15冊 柏崎(1999) p.56〕。従来、追放の理由として、当直にありながら市街に出て病人を診療し、後宮の急病人に対応できなかったからだとされてきたが〔、篁墩に当直を務める程の地位はなく、他の記録とも相容れず、全くの虚説である〔梅谷(1993) p.19〕。
江戸水戸出入禁止となった篁墩は、武蔵国熊谷宿に移って薬種業を営み、生計を立てた〔3月13日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.57〕。天明2年(1782年)1月末から3月まで禁を犯して江戸に滞在し〔3月13日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.58〕、2月、徳川宗翰17回忌で法要を務める浅草寺子院吉祥院主を介して恩赦を請うたが、年浅いとして認められなかった〔2月11日付書簡『艾峰手簡』 柏崎(1999) p.57〕。天明3年(1783年)6月19日、大雨により荒川が氾濫して熊谷の自宅が損壊し、下旬に江戸浅草吉祥院門前に売家を購入し、再び禁を破って移住した〔7月12日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.59〕。
一方、学業においては、すでに井上金峨に師事し、高い学識を養っていた〔。安永6年(1777年)以前より漢籍古本の収集に着手し〔柏崎(1999) p.61〕、天明4年(1784年)秋、『足利学校書目』を入手〔『足利学校蔵書附考』序〕、これに触発されてか〔柏崎(2004) p.40〕、『古文孝経孔氏伝』で中国に名を馳せた太宰春台を目標とし、校勘学の追究を決意した〔9月3日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.63〕。『足利学校蔵書附考』を纏めた後、古書の収集を続けて校勘を行い、特に何晏論語集解』の校勘に力を注いだ。
50歳を超えると、収集した貴重書は売り払い、子孫のため田地を購入した〔。寛政10年(1798年)9月1日痢病により死去した〔。墓所は台東区谷中大雄寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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