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吉田 経長(よしだ つねなが)は鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。中納言・吉田為経の三男。日記『吉続記』が伝わる。 == 経歴 == 寛元2年(1244年)従五位下に叙爵。建長3年(1251年)従五位上・和泉守に叙任され、建長7年(1255年)正五位下に叙せられる。 正嘉3年(1259年)兵部権少輔に任ぜられる。同年亀山天皇が即位するとその側近として昇進。弘長元年(1261年)中宮権大進、弘長3年(1263年)美濃守を務め、文永3年12月(1267年1月)五位蔵人に補任される。文永4年(1267年)4月5日、邸宅が焼亡。7月10日には山門奉行の経長は譴責され、屏居を命じられるが、詳細は不明とされる〔『大日本史料』文永4年7月10日条。〕。文永5年12月(1269年1月)春宮権大進に任ぜられ、世仁親王(後の後宇多天皇)に仕え、文永6年(1269年)には春宮大進に昇任。文永7年(1270年)に左少弁に任ぜられ、文永8年(1271年)従四位下・権右中弁となる。 文永9年(1272年)従四位上、続いて正四位下に叙せられる。文永10年(1273年)には右中弁・右宮城使を務め、後宇多天皇の即位後の文永11年(1274年)に右大弁、建治元年(1275年)には蔵人頭に補任され、左大弁に転じた。造東大寺長官を経て、建治3年(1277年)参議に任ぜられ公卿に列す。建治4年(1278年)には従三位・近江権守に叙任。弘安4年(1281年)正三位に叙せられた。 弘安6年(1283年)権中納言に進み、弘安8年(1285年)に従二位に昇叙。弘安9年12月(1287年1月)兵部卿を兼ね、正応元年(1288年)正二位・中納言に叙任されるが、持明院統の伏見天皇が即位しており、大覚寺統の亀山上皇に忠節を尽くす意味で同年辞退した〔本郷和人「吉田経長」(『朝日日本歴史人物事典』)。〕。しかし、朝政からは退いておらず、盛んに活動している。 正安3年(1301年)亀山上皇の孫である後二条天皇の即位に伴って中納言に還任。しかし、正安4年(1302年)11月18日、亀山法皇に無礼があったとして蟄居を命ぜられている。12月5日に出仕が聴され、乾元2年(1303年)権大納言に至るが、同年辞退、出家。法名は證覚。延慶2年(1309年)薨去。享年71。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田経長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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