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吉田 美奈子(よしだ みなこ、1953年4月7日 - )は、日本の女性歌手、音楽家、作詞家、作曲家、編曲家、プロデューサー。兄はレコーディング・エンジニアの吉田保。 == 経歴 == 埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)に生まれる。 高校生の時に知り合った細野晴臣と松本隆の勧めにより楽曲制作を開始、ローラ・ニーロやキャロル・キングのようなシンガー・ソングライターのスタイルを指向し、ライヴ中心の活動を開始する。 1971年5月に、第一期ブルース・クリエイションのベーシスト野地義行とピアノデュオ「ぱふ」を結成。アマチュア活動時代に、「はっぴいえんど」周辺のミュージシャンとの交流を持ち、1972年11月に発表された大瀧詠一のソロファーストアルバムへ収録された楽曲『指切り』のフルートソロで、プロとしてのキャリアをスタートする。 1973年9月、細野晴臣のプロデュースによるファースト・アルバム『扉の冬』を発表。RCA/RVC時代の山下達郎のバックコーラスを手掛ける他、相当数の歌詞も書いている。角松敏生のコーラス及びコーラス編曲も手がける。 1985年、サントリーのギフトCM用に『THANKS TO YOU』を制作し、第33回「カンヌ国際広告映画祭」で銀賞を受賞する。 大瀧詠一の作品で後に多くのアーティストにカヴァーされた「夢で逢えたら」の創唱者でもある。「人が書いた曲が自分の代表作になるのが嫌」という理由でレコード会社在籍時にシングルカットを拒み、シングルは彼女の移籍後にリリースされた。 この件については、大瀧も、自身がトータルプロデュースしたシリア・ポールのアルバム「夢で逢えたら」1986年再発売版の解説で、元々はアン・ルイス用に制作した曲がお蔵入りとなっていたもので、これを聞いた制作側から提供を求められた際、吉田のために作った曲ではないし、こうしたポップスタイプは好まないのではないかと制作側に意見した経緯を紹介している。また、「大瀧詠一 SONGBOOK 2」の解説では「その気持ちがよく分かる」と理解を示している。その一方、いずれのライナーでも吉田のバージョンは完全に「彼女のもの」になっている旨のコメントを掲載し、才能を高く評価している。 2002年にエイベックスがCCCDを導入した際、CCCDは音質が劣化している上に再生プレイヤーにも負担を与えるのではないかという指摘に対し、「音質はたしかに変わるがCDからCCCDになったのだから仕方のないこと」「音楽家が生活するためにはCCCDは必要」「音質ではなく音楽を聴いてほしい」等の発言で多くの議論を巻き起こしたが、2004年9月にCCCDでのリリース中止を表明した〔後年吉田は「2002年にエイベックスが、会社の方針でCCCDを導入する、私はそのことに従った。そうしたら“吉田美奈子がCCCDを容認していいものか”と言われて、あたかも私が率先してプロパガンダしているような扱いにされてしまったり、何か意見を出したことによって誹謗中傷されたりした」「だから、あの騒動は“それぞれのマテリアルには、それぞれの音がある”と認識した上で話さないといけない問題だったんですよ。正直にものを言うってこわいな、と思いましたよ」(太田出版『QuickJapan』 Vol.65 pp.146-151、2006年4月11日発行)と振り返っている。〕。 一人称は「僕」であることもあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田美奈子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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