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吉田 茂八(よしだ もはち)は、江戸時代の豊平川左岸の渡守であり、札幌の開拓初期の人物である。 == 来歴 == 1825年(文政8年)、北海道福山の荒物屋の三男として生まれる。 吉田は、1857年(安政4年)に箱館奉行によって銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開削されると、幕命により豊平川渡守となる。 『荒井金助事蹟材料』によれば、1858年(安政4年)から1861年(文久元年)の間に、発寒番所の足軽・亀谷丑太郎が荒井金助に上申して吉田を取り立てたとされる。 1870年(明治3年)には後の創成川の上流部にあたる南3条から南6条の間の掘削工事を請け負い、その区間は「吉田掘」と呼ばれるようになった。 1871年(明治4年)、戸籍を福山町から東創成町5番地(後の札幌市中央区南1条東1丁目2番地)に移す。建設請負業はいたって好調であり、1873年(明治6年)1月から6月15日までの経済動向を収録した『総高取調』の請負渡世部門9万円のうち、吉田1人で1割を占めていた。約1300平方メートルの広い宅地には、家族3人に加えて奉公人12人を抱えていたという。 その後の吉田について詳しいことはわかっていない。孫娘「ラク」の戸籍謄本には1920年(大正9年)7月5日に隠居の届出をした旨が記されているので、少なくとも95歳ごろまで生きていたらしいが判然とせず、1952年(昭和27年)2月4日付で「年月日及び場所不詳死亡」として除籍された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田茂八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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