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吉田豊作 : ミニ英和和英辞書
吉田豊作[よしだ とよさく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
豊作 : [ほうさく]
 【名詞】 1. abundant harvest 2. bumper crop 
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 

吉田豊作 : ウィキペディア日本語版
吉田豊作[よしだ とよさく]

吉田 豊作(よしだ とよさく、1888年5月5日 - 1940年6月1日〔『都新聞』1940(昭和15)年6月5日付7頁。〕)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.631.〕〔揚幕社, p.20.〕〔''吉田豊作''、''jlogos.com'', エア、2013年3月7日閲覧。〕〔''吉田豊作''日本映画データベース、2013年3月7日閲覧。〕〔''吉田豊作''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月7日閲覧。〕〔''吉田豊作''日活データベース、2013年3月7日閲覧。〕〔''吉田豊作''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月7日閲覧。〕。本名川崎 順次郎(かわさき じゅんじろう)〔〔。新派井上正夫門下の女形から、映画俳優になったことで知られる〔〔。
== 人物・来歴 ==
1888年明治21年)5月5日広島県佐伯郡厳島町〔(現在の同県廿日市市宮島町)、あるいは同県広島市大須賀町41番地〔(現在の同県同市東区大須賀町)に生まれる〔〔〔。
旧制・厳島尋常小学校(現在の廿日市市立宮島小学校)を卒業後、1908年(明治41年)、同県呉市の呉座下田平作の一座が巡業で来たときにこれに加入して俳優となり、以降、井上正夫の門下に入る〔〔。日本映画データベース、ならびに文化庁の「日本映画情報システム」によれば、1915年(大正4年)9月に公開された『塔上の秘密』(監督井上正夫吉野二郎)に井上とともに出演しており、本作を製作・配給した天然色活動写真(天活)で、翌1916年(大正5年)までに井上とともに数本に出演している〔〔。1917年(大正6年)には、同社の創立者である小林喜三郎小林商会で、井上とともに映画に出演している〔〔。1920年(大正9年)には国際活映に井上が招かれて同社が新設した角筈撮影所に入社、吉田もこれに同行している〔〔〔。『日本映画俳優全集・男優編』における田中純一郎の記述によれば、翌1921年(大正10年)4月24日に公開された『寒椿』(監督畑中蓼坡)が井上正夫の初主演作であり、吉田豊作の映画デビュー作であるとのことだが〔、上記のように井上も吉田も、すでに天活・小林商会で多くの出演作があった〔〔〔、2013年3月7日閲覧。〕。田中によれば、同撮影所では、3作の井上主演作が計画されていたが、第3作『水彩画家』のセット撮影寸前の同年7月に撮影所が閉鎖され、製作が中止になったという〔。
1922年(大正11年)、井上とともに、松竹蒲田撮影所に移籍、翌1923年(大正12年)4月1日に公開された『噫無情 第一篇 放浪の巻』(監督牛原虚彦)に出演、主役のジャン・ヴァルジャンを演じる井上を、ミュリエル復正の大役で支えたが、この『第一篇』を最後に井上一座を離れ、日活向島撮影所に移籍している〔〔〔。同年に発行された『現代俳優名鑑』によれば、吉田は「崇拝」の欄に「井上正夫氏」と答え、「系統」は「松竹キネマ」でありながら「出勤」(勤務先)は「日活撮影所」と答えている〔。当時、吉田は東京府東京市本郷区駒込神明町187番地(現在の東京都文京区本駒込)に住み、身長は5尺3寸2分(約161.2センチメートル)、体重15貫6000匁(約58.5キログラム)であったという〔。同年9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は壊滅、全機能を日活京都撮影所(日活大将軍撮影所、現存せず)に移し、現代劇を製作する第二部を創設した際に、吉田も異動している〔〔〔。
1925年(大正14年)には、松竹蒲田撮影所に復帰したが、翌年早々、兵庫県芦屋市帝国キネマ演芸に移籍している〔〔〔。芦屋撮影所の閉鎖後は、小阪撮影所に移り、1929年(昭和4年)まで在籍した〔〔〔。
1940年(昭和15年)6月1日死去〔〔国立劇場, p.499.〕。満52歳没。同年7月1日付の『京都日出新聞』に、二代目市川左團次(同年2月23日没)、四代目市川市十郎(同年没)、二代目市川團九郎(同年5月2日没)、柴田善太郎(同年5月16日没)、森三之助(同年6月9日没)とともに、演劇人として新盆にあたっての報道がなされた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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