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吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - 2000年(平成12年)7月30日〔「週刊新潮」2014年3月13日号p.25〕)は福岡県出身とされる文筆家。 1980年代に、大東亜戦争(太平洋戦争)の最中、軍令で朝鮮人女性を強制連行(「慰安婦狩り」)し日本軍の慰安婦にしたと「告白」。これがメディア、特に朝日新聞に長らく真実として取り上げられたことにより、国際問題化している「慰安婦問題」醸成の大きなきっかけとなった。しかし、後の追跡調査では吉田の証言の客観的な裏付けは取れず、寧ろ反証が得られるなど矛盾点を指摘されるなか、1995年になって自らの証言が主張を織り交ぜた創作であることを認めた。その後、1998年頃を最後に消息が長らく不明だったが、2014年になって既に2000年7月に死去していたことが判明している〔週刊新潮2014年3月13日号〕。その来歴には謎が多い(後述)。 == 略歴 == 後述するように、吉田の出自や経歴は時と場所で頻繁に内容が変わったり、矛盾が多く含まれており、はっきりとしていない。 新聞では1983年段階で70歳と報道されており、生年月日は1913年10月15日としている。また、本人の著作では本籍地を山口県と自称していた〔吉田『朝鮮人慰安婦と日本人』(1977)p.19〕が、実際には福岡県芦屋町西浜であるという。門司市立商業学校(現・福岡県立門司大翔館高等学校)の卒業生名簿に、吉田清治の本名とされる「吉田雄兎」の名があり、それによると1931年に同校を卒業したことになるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。2014年8月5日、朝日新聞が吉田証言にもとづく過去に報道を誤報と認めた後、同年8月28日付けの読売新聞は、2014年時点で60歳代の吉田の長男によると、1977年の吉田の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』(人物往来社刊)執筆の際、出版社とのやりとりの中で本名「雄兎(ゆうと)」ではなく、ペンネーム「清治」を使うこととなった、また著書出版により「これで家計が楽になる」と語ったのを記憶している、などと報じている〔読売新聞2014年8月28日13S版検証朝日「慰安婦」報道1面・4面〕。 吉田の自著では、東京の大学を出て、1937年に満州国地籍整理局に就職したことが記されている〔吉田(1977)p.7〕。地籍整理局への就職については裏付けがとれているが、学歴については朝日新聞が法政大学卒業と報じ、1990年の『著作権台帳』にも法大卒とあるが、吉田自身、秦郁彦に対しては法大中退と述べ、1996年3月27日、勤労しつつ法政大学専門部法科に在籍したことを秦に対して説明している。しかし実際には、法政大学の在籍記録には吉田の名は掲載されていない〔秦(1999)p.245〕。 また、1937年4月30日(当時の吉田は23歳独身)、朝鮮人男性を養子としている。吉田の著書によると、その男性は1938年9月1日に戦死したとのことである〔吉田(1977)第2〜6章。秦(1999)p.245〕が、秦らの調査によって、この男性は1917年生まれ(吉田の4歳下)で、1942年に結婚し、戦後九州で労組運動の幹部として活動した後、1983年に死亡したことが明らかとなっている〔秦(1999)p.245〕。 吉田によれば、1939年から翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっている〔が、上杉千年の調べでは1992年5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという〔上杉『検証従軍慰安婦(1993)p.58〕。吉田の自著によれば、1940年6月、吉田は朝鮮独立運動の首領で日本民間人を殺害した金九を輸送したかどで憲兵に逮捕され、軍法会議で懲役2年の刑を受けたという〔吉田(1977)七章〕。これによれば、1942年6月に諫早刑務所(別書には南京の刑務所)を出所している〔。ただし、吉田本人は1996年秦郁彦に対し、金九ではなく中華民国重慶軍の大佐だったと訂正、罪名についても阿片密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している〔秦(1999)p.245〕。 その後1942年9月には同郷の先輩の世話で労務報国会下関支部動員部長になった〔吉田(1977)p.71〕〔秦(1999)p.229〕ということだが、これについては、中川八洋が2年間刑務所にあった「前科者」が、出所後すぐに内務省系団体の動員部長に任用されることはありえないと指摘し、もし彼が中華航空の社員であったのならば、民間人である吉田が軍人・兵士を対象とする軍法会議にかけられるはずがないとして、その説明が虚偽であることを検証している〔中川『歴史を捏造する韓国』p.229〕。ただし、吉田が労務報国会下関支部に在籍していたことは事実で、これについては、複数名、吉田の勤務を記憶している人がいた。吉田が済州島で慰安婦狩りをしたというのはこの時期のことであるが、当時の朝鮮総督府管内には、朝鮮労務協会や内地の労報に相当する労務報国会があったため、労務調達のため内地の労報支部員が直接出向いて徴集しなければならない理由はなかった〔秦『慰安婦と戦場の性』pp.243-244〕。また、吉田の陳述では、西部軍 → 山口県知事 → 下関警察署長 → 吉田のラインで労務調達の命令が下されたとしているが、当時、このような命令系統は存在しなかった。なお、吉田は「元日本軍人」という肩書で公の場に出ていたが、労務報国会は日本軍とは関係なく詐称である。 報道ステーションが長男に取材した結果によると、吉田は戦後下関市で肥料会社を興し、朝鮮戦争の特需もあって一時期は羽振りがよかったという〔報道ステーション2014年9月11日放送〕。しかし、10数年後には会社をたたんで生活が苦しくなり、そのような中で原稿用紙を買ってきては週刊誌に投稿するなど執筆活動を始めたという〔。 まず、1963年、週刊朝日で公募された手記「私の八月十五日」において、吉田東司名義で書いた下関での労務調達風景が佳作となり賞金5000円を得る〔週刊朝日1963年8月23日号、秦(1999)pp.235〕。他にも、栄司の別名がある〔秦(1999)p.245〕。 1977年、新人物往来社刊『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版。そこでは、慰安婦狩り(強制連行)の話は出てこず、朝鮮人地区の女性が慰安婦を中継ぎする話になっている〔秦(1999)p.235〕。慰安婦狩りの話が出てくるのは1982年の講演であり、1982年9月2日朝日新聞大阪版では、吉田が慰安婦狩りの内容を講演した旨が採り上げられている。翌1983年、二作目となる三一書房刊『私の戦争犯罪』を出版。そこでは、1943年5月15日付の西部軍動員命令によって5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したとし〔吉田(1983)第三話〕、その要点は妻の日記に記載されているとした〔吉田(1983)p.156〕。しかし、吉田が結婚したのは翌1944年のことである。その点を秦によって指摘されると事実上の結婚と入籍が異なると釈明し、事実上の結婚はいつだったのかと指摘されると昭和16年かなと答えたという〔秦(1999)p.231〕。しかし、昭和16年は自著によると服役中であることも指摘されている〔秦(1999)p.231〕。 終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが〔『諸君!』1992年7月号p.126〕落選したという経歴を持つ〔朝日が報じ続けた慰安婦証言の吉田清治氏 証言も経歴も虚構 zakzak 2014年9月8日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田清治 (文筆家)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Seiji Yoshida 」があります。 スポンサード リンク
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