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岡田 斗司夫(おかだ としお、1958年7月1日 - )は、日本のプロデューサー、評論家、文筆家、実業家、企画者、講演者。 自称オタキング(おたくの王)。株式会社オタキング代表取締役、株式会社クラウドシティ代表取締役。 FREEex設立者。 株式会社ガイナックス代表取締役社長(初代)、東京大学教養学部講師、大阪芸術大学芸術学部客員教授などを歴任した。 ==人物・経歴== ===生い立ち=== 1958年、大阪府立病院で一男一女の第2子として出生。 父は大東亜戦争時に少年ながら大日本帝國軍の工兵として徴用、戦後は大阪師範学校(後の大阪教育大学)を出て小学校教員になった。息子に「斗(闘いを)司(司る)夫(ますらお)」という名前を命名する。 1963年、住吉区遠里幼稚園入学。幼稚園2年目で既に漢字も読めるなど早熟であったため、幼稚園は無意味だから辞めたいと主張し、父母らの同意の上で1964年に退園する〔 岡田斗司夫、速水由紀子「現代の肖像 岡田斗司夫」『AERA』2002年11月4日号〕。 幼少時に学校で受けた知能検査で、自身の知能指数が148以上あることを知り、頭が良いのなら宿題などは単なる機会損失に過ぎない、と、以後の勉学を放棄〔。この頃の夢は科学者になる事であった。大阪市立遠里小野小学校入学。父親はUFOや超能力などオカルト好きで中でも横山光輝の『バビル2世』の大ファンで、父親が買ってきたUFO関連の書籍を拾い読みし、大阪万博の御当地という環境もあって科学、物理方面に明るい子供となり、父親と空想上の乗り物の内燃機関について互いに知恵を絞っていた。 小学三〜四年の頃、母が内職(縫製)の規模を拡大させて有限会社を設立し、父が教師を辞め社長に就任。事業は順調に伸び、なけなしの小遣いで模型を購入していた頃とは一変し「岡田さんとこのボン〔裕福な子、お坊ちゃんの意〕」と界隈でも名が通り、模型店でも売掛(ツケ)で購入出来る程、顔が利く子供となる。この頃に培った科学的素養や世相が、後の創作物や「と学会」における講演などで活かされる事になる。知能に秀でた子供であったが理論武装で自己の要求を主張するも実姉との口喧嘩では毎度コテンパンにやり込められていた。 大阪市立三稜中学校入学、友人から機材を借りて自主短編映画を撮影し、学校の行事などで上映。この頃の岡田はSF作家になることを夢見る少年だったが、知識とアイデアは大量に出てくるが、それを創作物という形にするのは全く別の才能だという事を悟る。映画、特撮、アニメーション、模型、空想科学の流行に没頭。浜村淳のラジオ番組『ヒットでヒット バチョンといこう!』の「もし地球の自転が停止したら」という投稿コーナーで、「地球の自転が停止したとしても、エネルギー保存則まで消えてしまうわけではない。行き場をなくした膨大な運動エネルギーは瞬時にして熱エネルギーに変換され、あっというまに地球は灼熱の惑星となって生物は絶滅する」と投稿し、これが浜村に絶賛された〔岡田斗司夫『オタクの迷い道』文藝春秋、1999年、187頁〕。母はクリスチャンで、キリスト教青年会にも通っていたが、本人に信仰は無かったという〔ニコニコ生放送『ニコ生岡田斗司夫ゼミ 総括!年末だから『これが最後』の話をしよう』2011年12月5日〕。 1974年、大阪府立今宮高等学校入学。事業の成功により家が新築され、コップの水が凍る程強力な業務用エアコンが設置された45畳の部屋が岡田の自室としてあてがわれ、20歳までの3年間で蔵書が1万7千冊以上となる〔岡田斗司夫『オタクの迷い道』文藝春秋、1999年、117頁〕。テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を見て衝撃を受け、父親を説得して当時30万円するビデオデッキを購入。ビデオテープは1本だけだったために、幾度も再生して暗記しては上書き録画した。 1977年同校卒業、大学受験に失敗し夕陽丘予備校の予備校生となる。 1978年、コンピュータを学ぶために大阪電気通信大学に入学〔岡田斗司夫『世紀の大怪獣!!オカダ 岡田斗司夫のお蔵だし』イースト・プレス、1998年、141頁〕するものの、当時発足していた「SF&アニメーション研究会」へ入部。学業以外の場所を得て、没頭する。なお、大阪芸術大学の講義で本人が語った所によれば、1年生の時に履修届を丸々忘れてしまい、以降4年間は大学へ行くフリをしながら両親には仕送りを続けてもらい、籍を置いたままファン活動にのめり込んでいる。同年、映画「スター・ウォーズ」が日本公開、幼少時から家業の縫製技術を見て育った岡田青年はダースベイダーの衣装を自作し扮装、映画館の梅田OS劇場に出向き初公開を待ちわびる人々の行列に並ぶも、全身黒づくめの巨漢に不安を感じたと思われるイベント会社の社員に入館を拒まれて小競り合いになる。ある日家に立ち寄ってみると3階建だったはずの実家が4階建へと増築、最上階の1フロア丸々「巨大な神殿」と化していて、父親から「今日からお母ちゃん神さんやで」と告げられ驚愕。かねてより会社の収益が税金として徴収される理不尽さに嘆いていた母が、税金対策として新興宗教を立ち上げ、実母自らが教祖となっていた。(後に本人の語るところに依ると、逆に宗教として必要な経費の出費が岡田刺繍店の経営規模をに比べて大きすぎ、結局素直に税金を納めていた方がマシというのが実態。) 1981年、同大学除籍〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡田斗司夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toshio Okada 」があります。 スポンサード リンク
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