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吉良 持清(きら もちきよ、生年不詳 - 天文元年1月23日(1532年2月28日))は室町時代後期~戦国時代の武将。吉良義藤の子。東条城主。後期東条吉良氏(下吉良)6代目。中務大輔、左兵衛佐、左京大夫と称す。子に吉良持広、荒川義広がいる。 幼少期に父義藤が没したと伝わる。このため、松平氏の一族で青野松平家の松平義春が後見したというが信憑性に乏しい。後年、吉良義昭が松平元康と戦って敗れ、東条城に義春の孫の松平家忠が入ったことから創られた伝説と思われる。 上吉良家の当主が常は京都に住していたのに対して、下吉良家の当主は通常は在国し、稀に上洛するという形をとっていたが、持清の場合、記録に残るのは永正6年(1509年)12月3日に上洛して将軍足利義稙に年始の祝儀として太刀一腰を献上している(『大館記』)。この時は左京大夫と呼ばれている。 在京の折に冷泉為和に歌道を学んでいたらしく、大永2年(1522年)に為和を東条城に招いている。為和はその書『為和卿記』に同年10月4日、東条城にて詠んだ歌を載せている。 享禄年間(1528年 - 1531年)に為和は知行地のある駿河国に下向、今川氏の庇護を受ける。天文2年(1533年)に為和は三河国を通って上洛するが、その際には吉良のことを何も記していない。前年に持清が没していたためと思われる。 法名は妙恵寺殿または妙念寺殿。 == 参考文献 == 「吉良町史 中世後期・近世」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉良持清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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