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吉良 時衡(きら ときひら、生没年不詳)は南北朝時代の武将。三河吉良氏の庶流。兵庫允。 == 生涯 == 様々な異本のある吉良系図には見られない人物であるが、吉良氏嫡流である吉良満義の代官として史料に現れる。鎌倉幕府の正月恒例の行事である御的始の射手として、時衡に関係があると思われる武士が度々登場する〔『御的日記』。登場する吉良姓の武士は、いずれも「衡」を通字としている。登場順に吉良孫次郎信衡(正和2年(1313年)、正和3年、正和4年、文保2年(1318年)、元応元年(1319年)、元亨元年(1321年))、吉良彦次郎介衡(正中元年(1324年)、正中2年、嘉暦元年(1326年))、吉良彦三郎朝衡(元徳3年(1331年)、元徳4年)。また、孫次郎信衡以前には同じ孫次郎を称す吉良孫次郎助頼(徳治2年(1307年))も登場する。〕。 建武2年(1335年)2月、信濃国で北条氏残党が活動を始め、後醍醐天皇は同国国人市河氏に対して北条氏討伐の綸旨を発給した。市河氏は守護小笠原貞宗の軍勢に属して戦ったが、時衡の名前は5月16日の着到状の承判者として現れる。当時、吉良満義は鎌倉において関東廂番を務めており、後年、満義が建武年間に信濃へ赴いたとしている〔『師守記』康永4年(1345年)6月20日条。〕ので、時衡は満義の代官として派遣され、小笠原氏とともに討伐指揮をとったと考えられる。 また、暦応3年(1340年)から翌年にかけて、信濃国守護代として時衡が現れる〔『市河倫房軍忠状』。〕。当時の信濃守護は不明とされているが、時衡が守護代であることから満義が守護職に就いていたと考えるのが妥当である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉良時衡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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