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吉良 義昭(きら よしあき、生没年不詳)は、戦国時代の武将。三河西条吉良氏の当主。吉良義堯の三男。 == 生涯 == 三河西条吉良氏当主・吉良義堯の三男として誕生。 西条吉良氏は、はじめ長兄・義郷が継いでいたが、義郷が死去すると次兄の義安が継ぐこととなった。ところが、東条吉良氏の吉良持広も死去したため、兄・義安はこちらの家督を継ぎ、西条吉良氏の家督はこの義昭が相続することになった。 天文18年(1549年)、駿河国の戦国大名・今川義元が織田氏家臣の安祥城主・織田信広を攻めた際に、兄・義安は織田氏に協力したため、今川軍に捕らえられて駿府へ送られたが、義昭は今川軍に協力したため、義元より東条吉良氏も一緒に受け継ぐよう命じられた。これにより、東西の吉良氏を統一させて今川家に臣従することとなった。 しかし、永禄3年5月19日(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が討たれると、三河における今川氏の支配力が減退し、義昭は後援を失った形となった。しかも、これに乗じた松平元康(後の徳川家康)は今川氏から独立し、吉良氏をしばしば攻めるようになった。度重なる戦の末、ついに永禄4年(1561年)には松平氏への降伏を余儀なくされ、その後は岡崎へ移住させられていた。 永禄6年(1563年)、西三河に三河一向一揆が勃発。これを再起反攻の機ととらえると三河一向宗と同盟を結び、再び家康との決戦に臨んだ。しかし力及ばず、東条城は落城させられ、義昭は三河からの撤退を余儀なくされた(実際は、しばらくの間、そのまま在国していたが、生活に窮し出国したらしい)。その後、近江国に逃れ、最後は摂津国芥川で死去したといわれる。 兄・義安に吉良氏の家督継承が認められ、三河吉良氏そのものは存続を許された。その後、三河吉良氏は江戸幕府のもとで高家となり、赤穂事件で知られる吉良義央を出した。事件の影響で義央の嗣子吉良義周の代に改易されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉良義昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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