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吉葉洋一覺 : ミニ英和和英辞書
吉葉洋一覺[いち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう, は]
 【名詞】 1. leaf 
: [いち]
  1. (num) one 

吉葉洋一覺 ( リダイレクト:明武谷力伸 ) : ウィキペディア日本語版
明武谷力伸[みょうぶだに りきのぶ]

明武谷 力伸(みょうぶだに りきのぶ、1937年4月29日 - )は、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)出身の元大相撲力士。本名は明歩谷 清(みょうぶだに きよし)。
== 来歴 ==
1937年4月29日に、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)で開拓農家を営む家に三男として生まれる。既に小学6年生で身長が176cmに達しており、さらに力が強かったことで両親から家業を手伝わされたが、清少年は家業を手伝うのが大嫌いで、その代わりに次第に力士を志し始めるようになった。1953年のある日に羽黒山政司吉葉山潤之輔一行が地元へ巡業に来た際に、吉葉山と親しかった郷里の元三段目力士と共に宿舎を訪問し、ちゃんこを御馳走になったことで喜んで実家へ戻り、両親に報告して入門を打ち明けた。しかし両親からは大反対されたことで対立したが、通っていた雄別中学校の校長が「絶対に大物になるから、3年以内に(関取)昇進出来なかったら身の振り方を善処する」と両親を説得し、高島部屋へ入門、1954年3月場所で初土俵を踏んだ。
高島部屋へ入門してからしばらく経ったある日、吉葉山が現役中に設立した「吉葉山道場」(後の宮城野部屋)へ移籍した。中学の校長が両親に約束した「初土俵から3年」という約束の期限に達した1957年3月場所後に両親が吉葉山道場へ訪れて帰郷を命じるも、師匠の吉葉山が「横綱になった私も関取昇進を決めるまで4年かかりましたから。」と説得して1年の猶予を両親に求め、これにより続投を許された。11月場所で新十両昇進を果たし、1959年7月場所で新入幕を果たした。この場所は7勝8敗と負け越し、1場所で陥落したものの、3度目の入幕後は幕内に定着した。気の弱さから取組・稽古などへの積極性に欠けていたが、周囲からの忠告を受け、さらに部屋頭としての責任も感じるようになってからは自分にも若い者にも厳しくなった。
長身を生かして左四つからの吊り・上手投げで人気を博し、さらに上位力士に強く、1961年9月場所では場所後に横綱へ昇進する大関・大鵬幸喜と、大関・柏戸剛との優勝決定巴戦を行い、幕内最高優勝こそ果たせなかったものの敢闘賞を受賞する活躍を見せた〔大鵬とは1964年から1967年にかけて健闘し、通算5勝20敗と大きく負け越しているものの、最高位が関脇以下で5勝しているのは明武谷と房錦勝比古だけである。〕。三役三賞受賞の常連として大関昇進を期待されたが、柏戸に対して優勝決定戦を含む19戦全敗と全く歯が立たなかったり、昇進を目前とした1965年3月場所の初日と2日目を連続して勇み足で落として失速するなど、結局昇進の夢は叶わなかった。それでも筋肉質な長身と彫りの深い顔は外国人女性に人気があった。
1969年11月場所を最後に現役を引退して年寄・中村を襲名、宮城野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たったほか、勝負審判も務めた。しかし、妻の影響でキリスト教系の「エホバの証人」に入信して以降は「格闘技は聖書の教えに反する」として親方業との両立が困難となり、1977年1月場所を最後に廃業した。現在は千葉県船橋市にある村田工業所に就職後、さらにビル清掃業「日本美装」を役員として共同経営しながら布教活動を行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「明武谷力伸」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kiyoshi Myobudani 」があります。




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