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吉野川第十堰(よしのがわだいじゅうぜき)は、徳島県の板野郡上板町第十新田(北岸側)および名西郡石井町藍畑第十(南岸側)にある堰。吉野川を分流するために設けられている。「第十堰」というが「第十」は地名であって吉野川にある十番目の堰というわけではない。また「河口堰」と表現されることもあるが、河口からは約14キロメートル離れている。 == 歴史 == 1672年(寛文12年)、蜂須賀綱通により徳島城の防御を固めるため、吉野川と別宮川を接続する水道を開削する工事(新川掘抜工事)が行われた〔『四国のいのち 吉野川事典』(財団法人とくしま地域政策研究所、1999年、ISBN 4-540-98138-2)、146~148ページ「新川掘抜」。工事の年代には諸説があり、同項目では1701年(元禄14年)を工事の時期としているが、『板野郡史』(1926年刊行)などは1672年(寛文12年)としている。〕。その後の洪水でこの水道が拡大し、別宮川が吉野川本川となった(正確に名称が変わるのは、1932年(昭和7年)である。これまでの別宮川へと流れる河川を「吉野川」に、第十堰地点から流れ込んでいた吉野川は「旧吉野川」に名称が改められ、今日に至っている)。 その結果、旧吉野川に流れる水量が減少し、水稲栽培に影響が出るようになったため、1752年(宝暦2年)に水位をかさ上げし、旧吉野川への流量を確保する堰が当時の第十村(現在の石井町)につくられた(「第十堰」の名はこの村の名前に由来する)。第十堰建設は吉野川における藩政最大の土木工事であり、1736年(享保21年)に徳島藩が命じられた遠州大井川御手伝普請の際に習得した最新のノウハウが役立ったものと考えられる〔『吉野川事典』176~178ページ「第十堰」。〕。その後も新川の拡大により、何度かの継ぎ足しが行われ、現在の形に至る。 現在も当時の姿の青石組みが残され、堰としても有効に機能しているといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉野川第十堰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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