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吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年(明治35年)7月3日 - 1967年(昭和42年)7月13日)は、近代日本の歌人、書家、文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。 == 略歴 == ===生い立ち=== 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。1915年(大正4年)の4月に高崎商業学校に入学。国文学に親しみ、正岡子規や長塚節について学ぶ。1920年(大正9年)に高崎商業学校を卒業後、慶應義塾大学理財科予科に入学し、次いで経済学部に進む。慶大在学中に子規庵を訪ね、遺墨を見て感銘を受けた。しかし、1924年(大正13年)に肺結核を患い喀血して帰郷。失意のうちに大学中退を余儀なくされ〔1962年から慶應義塾特選塾員として同窓会名簿に名前が掲載されている〕、ここから吉野の生涯に渡る種々の疾病との闘いの歴史が始まる。 病床で国文学を独学し正岡子規らアララギ派の作風に強い影響を受ける。この頃より子規の『竹乃里歌』に感応して和歌を学び始め、1925年(大正14年)に會津八一の『南京新唱』に傾倒、同年8月に療養生活のため七里ケ浜の鈴木療養所(現・鈴木病院)に入り、鎌倉市長谷「光則寺」の借家に居住。気管支性喘息を患う。1926年(大正15年)に栗林はつと結婚し、第一歌集『天井擬視』(私家版)を刊行。文体の骨格や語彙に万葉集の影響がうかがえる。1927年(昭和2年)に痔を手術したが、秋から冬にかけて呼吸困難となり酸素吸入を行う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉野秀雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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